■ 小麦ちゃん24時間ラジオ
http://www.komugi-club.com/24radio/index.html
まあ、大変。
■ 未来少年コナンを見ている
ラナ泣きすぎ。現在のアニメのヒロインの標準からいうと、ラナはすぐくじけるし泣く。でもそれが時代なのかも。もっとも、最近、一周して、また、つよい女の子ではない類型が萌えとかでもてはやされているような気もする。まあ、宮崎アニメなので、やっぱり根は気丈なんだけどね、ある意味、リアルなのかもしれない。ふつうは、というか本当は、これくらいの目にあったら、この程度にはくじけるだろうなあ。その意味ではシータやナウシカはただものではなさすぎるのかも。
あとこのアニメを見て思うのは、宮崎駿はつねにひとつの同一の作品のさまざまなバリエーションをつくってきたのだ、ということ。このことはほかの多くの作家にもあてはまることで、伊丹監督とか大江とかは歴然としてる。これはキャラクターの原型がすでにここで出来上がってるという意味ではない。というか、そういう意味ではあるんだけど、それだけではなくて、たとえば手塚のスターシステムとの違い、ということ。手塚のスターシステムでもキャラクターは使いまわされるんだけど、それはいわば役者として、キャラクターが出てくるので、宮崎アニメのように、人間関係の構図まで再現されはしない。やはり、かれは理念的なある作品のさまざまな側面から光を当てたバリエーションをつくっているのだ、というほうがぼくにはわかりやすい。そしてそのことは、けっしてマンネリということではない。むしろ創造的な作家の多くは常にそうしてきたのだから。むしろこれはキルケゴール的な、反復というやつだろう。
関係ないけど、ルパンと絵や質感や演出法が同じなのはスタッフが同じだから? ぼくくわしくないんだけど、それとも時代色なのかな。
気になったのは、テンドン(繰り返し)のギャグがうっとうしいということ。多分、絵が動く、ということのインパクトがまだ強くあって、動きのマイム的なギャグが面白かったんだろうけど、今見ると、いちばん、この繰り返しのギャグはいらないところだ。
■ ちょっと思ったこと。
オンラインこっくりさんとか実現できないかな。要は、ランダムな無数の人の関与から意味なさそうでありそうなフレーズを生成するシステムであればいい訳で。
あとテキスト庵へのxml-rpcの中継cgiがあると便利。つまり、weblogs.comみたいなxmlrpcインターフェイスをこっちで設置しちゃうということ。
■ ごっつ
http://d.hatena.ne.jp/kowagari/20030828
最近の松っちゃんには感心できないことが多いのだけど、ごっつのころはやはりすごかったんだよなあ、と思います。シュールというのは暴力的な言葉で、意味不明であればいいという誤解を芸人の側でさえしていることが多くて、いってみれば非日常的な形で論理的でないと面白くないわけで、そういうことがダウンタウンはよくわかっていたとおもう。つまり異次元人の論理は意味不明だけどきちんと存在してるという。ちなみに異次元人といえばセブンだったかエースだったか。あと金井美恵子とか中上とか安吾とかきちがい部落周遊記というか、サイバラというか、ものすごいひくーい目線、地面すれすれから見た視線というのも絶対必要だと思う。つまりシビアである意味くだらない、それだから惨めにも見えるし明るくもあることへの視線。じゃないと、とかげのおっさんとか寸止め海峡の荒城の月とかありえない。でもそれを意味付けてしまうとだめなので、別の論理があるんだ、ということと、寓意があるんだ、というのはぜんぜん違うはず。ただの言葉遊びでさえ、それが、面白いのは、あたらしい言葉の組み合わせが、それまで存在していなかったものを想像力の中に呼び出して、そこにひとつの別の世界の論理を垣間見せるからなわけで。
■ 幽霊がいない理由
http://amrita.s14.xrea.com/d/?date=20030828#p04
うーん、ぼくには幽霊がいるかもしれないという人のいうことがどうしても理解できないんですよね。結論だけ言ってしまうと、幽霊がいないのは、事実の検証をしなくても証明できる言葉の定義の問題だとおもう。
幽霊が、いるとしたら、それは物理的にいることになってしまうわけで、それが科学で説明がつかなかったとしても、それは単にあたらしい物理法則が発見されたというだけのことだと思うんです。
たとえば、幽霊が見えるということは、錯覚でないとしたら、幽霊が可視光線を反射するということか、あるいは、脳に物理的に干渉した、というどちらかでしかありえないわけです。なぜなら、色というのは、わたしたちの身体の構造や必要によって定義されているものであって、身体を抜きにして色というものが意味をなすことはないわけです。原則的に、精神は身体によって定義されているので、身体から独立した精神というのは無意味です。同じように、音の聞こえというのは、わたしたちの耳の構造と不可分です。
幽霊が存在する、しかも文化的、社会的、言語的、つまり情報として存在するのでないなら、それはどういう言い方をしようと、物理的に存在するという意味でしかありえません。ですから、もし実際に幽霊を私が見たとして、そしてそれが、そういう情報論的な存在でないという証拠が何かあったとしたら、わたしは、単にあたらしい自然科学の法則が発見されたと考えます。物理的存在者と相互作用が成り立つということは、それが物理的な存在だということです。これは定義上そうなので、つまり、哲学的なレベルで、物理的な存在をせずに存在している、というのは、そもそも言葉として意味を持つことができない、と思っているわけです。(情報としての存在は物理的な存在も持っています)
Comments(in hatena)
essa『jounoさんがおっしゃるのは、「幽霊が認識できるとしたら、物理的な実体であるか情報論的な概念であるかどちらかである」ということだと思います。つまり「我々の認識できるものは、その二つに分類できるはずだ」という信念あるいは仮説だと思います。これを証明するには「我々が認識できるもの」全てに関する知識が必要です。/宗教的な神秘体験をした人は、「認識」「意識」等についての認識を改めよ、という主旨のことを言っています。つまり、普通の人は「自分たちが認識できるもの」についての認識あるいは体験に欠けたものがあると言います。そのような主張は少なくとも非論理的とは言えないと思います。/だから、私は「我々がよく知っている実体でも概念でもないものを我々は認識できる」という可能性については、常にオープンです。ただ、それを確定的に知ることはできないと思っています。』
jouno『うーん、問題なのは、物理的な実体である、とはどういうことか、だと思います。物理的な実体を媒体として持たない経験の対象がある、ということをいうためには、物理的実体ではないということの意味が確定できなければなりません。物理的実体であるということは、客観的に存在する認識対象という以外の限定がされてはいないのだから、神秘主義の言う存在もまたこの規定からはずれてはいない、と考えるわけです。ことは、独我論をいかに否定するかにもよりますが、ぼくは徹頭徹尾これは、物質ではないとはどういうことかをまず説明してくれなければいけない、ということを主張しているわけです。』
jouno『簡単にいうと、「存在する」という言葉の意味をいかに定義するか、ということで、このかぎりで検証から独立した問題です。いいかえると、存在するということを、非物理的存在と物理的存在に分割する根拠、および、その区切りの基準がわからないわけです。いってみれば存在するということに、種類はないわけです。情報として存在する、というとき、それはじつはある存在者がある形式をしているということでしかありません。つまり、存在しているものの属性として情報は規定できるわけです。』
jouno『要するにですね、ぼくには、物理的にではなく存在するという言葉がそもそも意味をなさないと考える、なぜなら、物理的にではなく、という修飾語が意味内容が規定されていないから、ということです。もっと明確に言うと、神秘主義者は、ある現象を、いかなる根拠で非物理的な現象というのか、そのような基準を規定することは論理的に不可能なように思う、ということです。』
jouno『ですから、オープンであるべきなのは、ぼくは、まだ知らない物質の性質や自然法則がある、ということに対して、という風に言うほうが筋がとおる、と考えるわけです。』