■ 東浩紀さんとはてな
まあ、東さんへのはてなユーザーの対応が普通なのは、単純に論壇での知名度は一般の知名度と必ずしもつながってないということと、東さんが別に日記では何かを「論じ」たりしてないから、ということじゃないかなあと思います。セキュリティ話で知名度の高い高木さんみたいに日記を活動の場として使ったら、当然のようにもっと熱い反応があるんじゃないでしょうか。
ところで面白いのは、はてなってblogの一種っていう了解も結構あるんだなあということ。日記と区別して使ってる用法なうえで、しかもはてながblogとして認知される背景ってどのへんなんだろう。
■ 唯物論
唯物史観はどうかしらないが、唯物論を批判する人はちょっと多くの場合勘違いしていると思う。唯物論というのは精神的なものが存在しないとか価値がないという意見なんじゃなくて、精神的なものは物質的なものの上にしか存在できない、つまり物抜きで精神的なものだけが存在するということはない、という意見なので、これを批判すると、どうしてもオカルトか信仰の世界に入ってしまうと思う。つまり、唯物論者ではない、ということは逆にいえば、物は精神をつくりだすことができない、といっているわけで、それは物質の精神的価値を貶めているんじゃないだろうか。
たとえば歴史において、食い物の事情だけではなく、思想や心情などの観念が大きな役割を果たした、という考えはもっともだし、唯物論と矛盾しないわけで、なぜなら、そのような思想や観念は、物質からなる人間やその脳やその物質的な人間の具体的な活動の相互作用としてしか存在しないのだから。思想や記号は物として存在する。そのことは思想や記号をせまく限定することにはならないと思う。
もちろん、こういう場合、いわゆる体制的左翼の物質反映論、つまり、食い物とかの下世話な事情によって高級な文化は一方的に決定されてるんだ、という独断は批判されるべきだし、唯物論とはこれは似て非なるものだ。むしろこういうどっちが上にたつにしろ、そういうヒエラルキーを批判することが大事なのだろうと思う。思想や感情は、物として、食い物や生活の事情と、同じレベル、平面で相互作用する。一方が他方を反映したりしてるわけじゃない。それが唯物論だと思う。記号とは物である、と書いたのはバフチンで、それにぼくは痺れたりしたのだけれど。
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