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Drifting Antigone Frontline

2003/09/04 00:00 JST

もちろんネタであるとしても 21:49

http://d.hatena.ne.jp/hazuma/20030904#p1

http://d.hatena.ne.jp/hitomisiriing/20030904#p11

当人以外が大まじめにネタでマジレスするのはむしろいい感じであろう、という意味で、むしろ東さんをしらないオタク・コミュニティでエヴァとか萌えにいいたいことがある人が参入すると(思想系じゃないと面白くないか)おもしろいとおもう。マヤ萌えの話はかなり面白かったです。どうですかね、滅・こぉるさんあたり。

同字の続き 21:26

http://d.hatena.ne.jp/Petronius/20030904#1062652976

宿題のつもりではなかったのですが回答していただきました。たいへん恐縮です。おもしろいのでみなさん読んでみてください。

えーと、ということは娘と嬢は元来の漢語においても同一の漢字ではなかったということでいいのでしょうか。(追記。ああ、そうか。たしかにそう書いておられますね。右側は音符ではなく意符なわけですね、なるほど)うーん、とはいえ「相通」の字といえども字が違うということは、着の場合のように略字の場合を除いて、意味がもともと違いうるということですよね。そもそも現在、違う字として使われている同音の家族語も、元来は同じ語であったということは云えるわけで。たとえば、得、徳、直とか。「漢字源」はそういうのにくわしくて面白いですが。じっさい、和語でも、現在別語として認識されているがもとは同じ語であった同音語はたくさんあるわけで。

なので、ケースとして、表記だけのバリエーションで、語として使い分けがない場合と元来そうだったが語としての使い分けが生まれた場合、とがあるわけなので、中国語で表記だけではなく語としての用法の違いが、日本輸入以前にあったか、その後の日本と中国語での使い分けの経緯はどうだったか、という二点がポイントでしょうね。

新潮の記事だと使いわけはどの時点でも日本だけの現象のように読めます。

あと、余談。

表音文字というのは、実は外国の文字を輸入した民族においてしか発生しません。なぜかというと、言葉を、音素で分析するということは、どういうことか考えてみるとわかります。それは、外国語で自国語を表記するということに等しいのです。つまり、空耳です。音素による言葉の分析は、空耳という経緯でしか発生しない。ですから、アルファベットは発明された時点では、漢字と同じような、形態素文字(単語単位の文字)でした。たとえば。Aはアレフで牛という意味ですね。で、文字をもたない、そして牛をアレフと呼ばない民族がこの文字を輸入します。さて、この時点で、どうしたら、この文字をつかえるでしょう。電報方式しかない。「あした」という文章をつたえるのに、「アップルの最初、シャドウの最初、タンクの最初」というしかない。表記は、「アップルの文字、シャドウの文字、タンクの文字」が続けてかかれる。

こういうことを考えていると文字って不思議だなあ、と思います。それはある意味で、つねに外国語で考えることです。

追記。娘と狼。

http://homepage2.nifty.com/osiete/seito322.htm

これもおもしろい。

追記2.あはは。

http://yokohama.cool.ne.jp/kanjitou/omolog2.htm

これはもちろん、中国語ではありません。



 幽霊 ちなみに 21:04

以下に述べていることからわかるとおり、スピノザ的に、霊的存在しか存在しない。物質的存在などというものはない。われわれが物と呼んでいるものも霊的存在であるし、物質も霊的である、という、汎神論的一元論の立場とは、ぼくは共感可能です。そう呼びたいのなら、世界は当然のように神の身体です。ただし、この場合、神には意識も人格も意志もない、というスピノザ的前提がいりますけどね。(しかしこのスピノザ的って用法あってるのか?)

あとちょっとid:kosekiさんに反論 20:53

まず、趣味の問題に物事を帰してしまうのは安直なんじゃないでしょうか。それはべつにいいんですけど、ともかく、ぼくがいっているのは、物質的存在に存在をまとめることではなくて、存在とは別に霊的存在という範疇を立てる必然性はない、ということなんです。

いいかえると、物質的存在というときの物質的、というのは限定語ではないんですよ。存在を物質的存在と呼んだからといって、存在が限定されるわけではない。

(もちろん、存在者の二次的構造として存在するもの、形式とか情報とか概念とかの存在はここでは別とします。当然のように、わたしたちはそのような二次的存在者ではなく、一次的存在者について語っているはずなので)

いいかえると、ぼくには、霊的存在と物質的存在というふうに、一次的存在を分ける基準と必要性がまったくわからないし、霊的存在を物質的存在とどのように区別して理解しているのかもわからない、といっているんです。ですから、わたしは一次的存在は一種類であるといっているので、それを本来、霊的存在と物質的存在とわけたときの物質的存在と同じ言葉で呼んでいるのは便宜に過ぎません。本来は、存在に種類はない、といってるだけです。

もっと簡単にいうと、あのー、で、霊的存在と物質的存在ってどう違うんですか、という問いに答えられない限り、このような区別を立てる必然性がどこにもない、ということです。

あと、注釈。わたしは物というとき、物理学の現在の理論の物質にたいする解釈の意味で使っていません。このことも強調しておきます。自然科学の物質というものの定義や解釈は可変的です。そうではなくて、そういう解釈や理論の根拠になる、物やあるという言葉が意味することを意味しているわけです。物理学の物質への理解や理論は、物とか「ある」ということへの哲学的な水準での了解があった上での、その解釈です。わたしはそういう解釈のことをいっているわけではなく、人はどういう場合にそれを物と呼ぶか、という水準で物質という言葉を使っているわけです。

essaさんにいくつかリアクション 20:28

えーと、とりあえず、無茶いわないでくださいよ、とぼかあ主張したい。

この対話は機械としての精神には不可能というのが、直感としてであれ、ものすっごい無茶だと思いますよ。まず、それが、非物質的経路の問題としてなら、ぼくもあなたもテキストから読み取った意味以外の情報を前提にしてしゃべってなどいないし、そういう経路を仮定する必要を推測させる萌芽すら、ないと思います。ちょっと具体例をあげてみてください。それは、あなたがぼくが書いてない個人情報を知っているとか、そういうことならまだ納得しますけど。

精神の思惟能力の問題としてなら、別にネット上の対話であるかどうかは無関係で、機械は思考しうるか、という古典的な問題ですね。第一に、心身二元論は、機械の中の幽霊、あるいは脳の中の小人という古典的難問を持っています。ひとが考えることができる理由を、心という実体が考えているからだ、と答えることは、では心はなぜ考えることができるのかという問いを引き出し、以下、無限に続きます。たとえば脳の中の小人というのは視覚についていわれたことですが、見ることができるのは網膜に映像が映るからだ、と答えることは、それを脳が見ているのだと答えることで、やはり脳を、網膜に映った映像を見る小人と考えることに等しく、説明になっていないわけです。考えるということを説明するためには、それ自体は考えていないものが組み合わされることで考えるようになる転移点を説明しなくてはならないのです。意識を物質から独立した実体と考えるというのには正直、めまいがする思いがします。ちょっと、いまどきほんとうにそんなことを大まじめに信じている人がいたのか、と別に侮辱するつもりはないのですが、かなり本気でショックです。

AI研究の現状についていうなら、AI研究者は脳とくらべて自分の現在持っているシステムがどれほど貧弱なものかよく理解してますよ。少なくとも現状を基準にAI研究の可能性を判断するのは、三輪車でバットモービルにできることを判断するよりももっと懸隔の大きい推測だということは理解してください。

というか意識の不思議とおっしゃいますが、意識が物質でない理由、あるいは意識がある種の機械でない理由として、意識がすごい(意訳)ということをあげておられますが、ぼくとしては反問したい。ということは、あなたは、物質にはできないことがある、と考えているわけですが、物質にはできないこととして何を考えていますか、そしてそれはなぜですか。ぼくには、機械や物質にはこれこれのことができないと聞くたびに、なぜそう思うのか、明確な理由を聞いたことがありません。それは理由もなく、物質に特定の限定を与えているからでしょう。まずその前提、物質へのイメージ、限定を明確にした上で、物質という概念にそういう限定を与えることが正当かどうか問うべきです。

あと、物質は社会的事実ではない、とぼくは主張しておきます。ひとがそのなまの経験のながれから、外界というものを抽象するのは、意のままにならない独立のものがあることを経験によって強制的に認識させられるからです。これはまさしく現象学の課題。

つまり、ひとことでいうと、意識がどれほど不可思議ですごくても、そのことは物質のすごさを説明するということでしかない。意識にこれこれのことができる、ということは物質では説明できない、と主張することができるためには、まずあらかじめ、物質にはこれこれのことはできない、といえなければならない。で、その前提となる、物質にはこれこれのことができない、という主張が、まったく立証も説得力のある説明もなされていないし、ぼくには原理的にそういう立証はできないように思う、そういうことです。

なお、物質が社会的事実ではない、とぼくがいっているのは、ぼくが、物質というのを、経験を存在させる実体的基盤としての外的存在者の意味で使っているからです。そもそも、社会的事実という意味では、物質を経験することなどできませんよ。われわれは、物質の効果を経験できるだけです。意識が経験できるのは、もちろん、意識における物質の効果だけです。つまり、それが、表象ということです。わたしたちは、知覚データしか経験することはできず、ものを経験することなどできません。ですから、物質は、経験の対象ではなく、経験の存立基盤です。そしてもちろん、わたしは意識も物質の特定のシステムの効果と呼んでいるのですから、つまり、物質の効果としての意識が、別の物質による意識への効果としての知覚データを経験する、そういうことです。それが、経験も意識もともに、物質の二次的、上部構造であるという意味です。

ずれのなかにかなりの部分、essaさんが物質というのを物質の表象の意味でつかっていることにあるように思いますし、また、essaさんが唯名論的な認識論によっていることもあると思います。つまり、存在論を認識論に帰してしまう論理です。

わたしはカント的なもの自体を仮定することは不可避だと考えます。でなければ、わたしとあなたが、同一の現実を共有しているといえる根拠がない。わたしとあなたは現実の表象を共有していないけれども、同一の現実を共有している。それが、もの自体を仮定することの意味で、それこそが、物質というものや存在という、認識の背後の現実(認識としての事実ではなく)を考えなければならない理由です。

物質という言葉はこの意味で、無内容というか無規定な概念です。無規定な概念(つまりそもそも意味内容の範囲が明確に限定されていない言葉)にできないことがあると主張するのはかなり論理的に無理があるのではないでしょうか。

くりかえしますが、こんなすごいことは物や機械にはできそうにない、という論法は、端的に無茶です。物や機械というのは、きわめてひろい概念で、その定義からしてできない、といわないかぎり、そのような物言いは無意味です。わたしとしてはそういう論法には、しかし実際にできてるじゃん、とこたえるほかありません。ぼくはさいさん、まさにこの点をついてるわけです。ここが明確であればいいんです。物でないとはどういうことか? 物にあることができないと主張するとすれば、では物にできないことはどういうことができないと考えているのか? そしてそれはなぜか? この問いに答えるのは、最低限の義務だと思います。

念を押します。わたしは物を社会的事実として定義しません。物自体として語っています。社会的事実というものが存在するためには、複数の意識が認識を共有すること、最低限、認識の対象が同一であることが必要です。この必要は、認識の背後になんらかの共有のものがあることを必要とします。これがもの自体です。つまり、わたしたちが、同一の世界、同一の現実について語っているといいうるためには、あるいは、複数の意識が関係を持つことができるためには、物自体としての共有現実が論理的に要請されます。もちろん、ニーチェ以後のわれわれは、この物自体としての共有現実としての世界が、認識ぬきにありうるとか、それ自体表象であるということはできません。これは、現実は事実ではない。現実は複数の事実として認識されうる。しかし現実は事実ではないから、より現実に「似た」事実というものはない、そういうことです。これは像の認識論を否定しつつ実在論を構成する試みです。現実の像は複数あるけれども、現実そのものは同一。しかし旧来の認識論のように、現実そのものも像であると考えると、いちばん現実とそっくりの像というものを考えることができて、それが真理ということになるけれども、現実そのものは像ではない、そういうことです。デリダ的に、この共有現実、物自体は、むしろ認識の効果であると主張してもかまいません。重要なのは、認識や意識同士が関係を持ち、同一の対象について語っているといいうるためには、認識だけでなく、その基底的構造として物自体が要請されるということです。

で、それをわたしは物と呼ぶ。またひとが通例の用法でいう物という言葉も、この意味での物を実際にはさしているとみなしてよい、そうわたしは考えているということです。

天地のうちには、ホレーショー、おまえの哲学では、はかりもつかぬことがある 06:25

http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20030903

結局、ぼくはむしろ、物質って何だろう、という不思議に考えがいく。あるというのはどういうことか。物であるとはどういうことか。あるということと、物であるということはどう違うのか。同じなのか。物質に定義ってあるのかしらん。それがむしろ知りたい。実際、物質ではない、とはどういう意味なんだろう。物質であるとはどういう意味なんだろう。

「未だ生を知らず、焉ぞ死を知らん」

むしろ幽霊がいて、死後の世界が神秘主義者のいうようなものであれば安心だ。そうだとしたら、死は理解可能なものだから。あの世にも、この世と同種の秩序があるということになるのだから。

天国に蓮の花がある、といわれて、植物学者は、「おいおい、ハス一般なんてものはないぜ、いったどの種のハスだろう。ハスだけが咲いてるんだろうか、植生はどうなってるんだ?」ということを考えずにはいられない。もし、そういうハスではないというのであれば、それは実はハスなんかではないんだろう。

ホレーショーの哲学とは、死後の世界を信じることだろうか、信じないことだろうか。死を恐れ、死をまったく意味不明な出来事とみなし、なにひとつ死について知ることはできないとおののくことは、マクベスの城のドアをたたく恐るべき真夜中のノックに耳を澄ますことに似ている。

ドン、ドン、ドン!

実際、レトリックではなく、物質とはどういうものか、物質であるとはどういうことか、というのは、しんから知りたいことのひとつなのだ。

意識の闇は深い。そこにはなにがうずくまっているかわからない。だが、それは「もの」のただなかにあって、意識と物との連続性こそが、井戸の深さと暗さをあかしだてているのではないか。むしろ、物と心の縁が切れていたら、精神は、透明で理性的な明るさの中にあるのだろう。だが、精神はなかばは物にほかならないから、それはくらいのではないか。

花田清輝が、鉱物礼賛の論を書いていたような気がする。物への憧れは死の衝動なんだろうか。いきていることがなかば物であるということであるということは、われわれはつねになかば死んでいるということだろうか。生とは死の部分であり、意識とは無意識の部分であり、目覚めは眠りの一形態なのだろうか。

04:52

id:kosekiさんのところで読んだタイムトラベラースパムもおもしろいんだけど。

「そういうものだ」

http://www.hotwired.co.jp/news/news/culture/story/20030509206.html

こういうのをネタログと呼んでみるのはどうか。

というか、こういうのをテキストサイトのひとがやってみせてくれると面白そう。

というのは、先日リンクしたカエサルのblogっていうのが面白かったから。

実際、絶望の世界って、そういうものだよな。

誰か訳してweblogだっていって英語圏に紹介すると盛り上がるかも。あくまでも、かも、だけどね。

アフォーダンス 04:16

http://yasai.2ch.net/psycho/kako/972/972314277.html

参考まで。

ちなみにぼくはこの考えに非常に目がさめるような感動を味わった口なので、唯脳論にはぜんぜん正直感心できないのです。あとドーキンスもうさんくさいぞ。

うー、ユクスキュルもそのうち読まないとな。

ていうかギブソンとユクスキュルはキーワード化すべきか?

ちなみにユクスキュルはこんなん。

http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Miyuki/2664/yukusu.html

ぼくが身体なき精神というのを認めないことにムキになるのは、精神が環境や身体によって決定されているというこういう認識に非常に啓発された経験をもっているからかもしれない。

tDiary update report 01:06

途中までで力尽きた。またしばらくしたら続けるかも。

なおソースのほとんどがきたさんのtb-send.rbという。

あらら、タブ消えちゃうのか。まあいいや。

if /^(append|replace)$/ =~ @mode then
require ‘net/http’
##############
url="http://www.spacehorn.com/text/report.cgi”
sendcode=Kconv::SJIS
id="”
pass="”
query="ope=report_one&reg_num=#{id}&password=#{pass}&new_subtitle=#{title}”
##############
query = Kconv::kconv(query, sendcode, Kconv::EUC)
query = CGI::escape(query)
if %r|^http://([^/]+)(/.*)$| =~ url then
request = $2
host, port = $1.split( /:/, 2 )
port = ‘80′ unless port
Net::HTTP.version_1_1
begin
Net::HTTP.start( host.untaint, port.to_i ) do |http|
response, = http.post( request, query,
“Content-Type” => ‘application/x-www-form-urlencoded’)
# XREA taisaku.
# how to deal with responce.body?
# $stderr.puts response.body
end
rescue
end
end

end

幽霊の続き 00:32

ネット上の対話においてテレパシーのような何か別の媒体が存在するとして、それがなぜ物質ではないかと言うと、その媒体(テキスト外のコミュニケーション)について、誰にもわかるようなかたちで指摘することが不可能だからです。それがなぜ精神や心理の産物でないかと言うと、一部の人とはその存在やその属性について同意を得ることが可能だと思うからです。

うーん、こういう物言いがされてしまうということは、完全に認識論と存在論がずれていると思います。というのは、争点は存在論であるべきなのに、徹頭徹尾、認識が理由付けに出てきているからです。

認識の対象として共有できるかどうかは、それが、実在するかどうかとは関係ないでしょう。認識として共有されることが問題なのはむしろ、存在ではなく「事実」でしょう。

誰も認識できなくても、実在するものは実在するし、しないものはしないでしょう。

たとえ誰にもわかるように指摘できないとしても、それが事実、経験されるものなら、すくなくともそのように経験される原因は物質的に実在します。そのことの実在性に、それがひとに説明できるかどうかというような、認識のレベルでの問題は無関係です。誰にでもわかるように指摘できない、という理由でものごとの実在性がおびやかされるとしたら大問題です。普遍化できないということ、認識として他者と共有できないということは、事物が存在しない理由にはまったくなりません。それは単に「社会的事実」になりえないだけです。

同様に、認識の対象として共有できる、一般性を持つということは、その認識の対象が実在することの理由にはまったくなりません。それはやはり、社会的事実になるだけです。集団的に、実在しないものを経験することも信じることも見ることも感じることも完全にありえます。そういうことが理由で事物が存在することになるのであれば、これも大問題です。集団的主観が客観になってしまうことになります。

社会的に共有された事実、認識として存在する、ことは、それが実在することとはまったく無関係です。あるものが実在するならば、認識主体がこの世に存在しなくなっても存在するでしょう。

いいですか、ぼくは存在というとき、存在の表象ではなく、存在のことを言っているんです。わたしの「見え」はわたしを見る人がいなければ存在しないけれども、そのことはわたしがなくなるということにはならないでしょう。それと同様に、存在の表象、認識は認識者に依存するけれども、そのことは、存在するかどうかが、認識者に依存しているわけではまったくありません。

コミュニケーションの例そのものについていえば、単純にわれわれがテキストにどれだけの情報がのってしまっているか、そしてその情報がほかの情報とくみあわされることで、どのような情報が生成されるか、について、知らない、あるいは過小なイメージしか抱いていない、ということでしょう。風が吹けば桶屋が儲かる、google:バタフライ効果ではありませんが、累積効果というのはけっこう予想外の情報を創発するものですよ。この世のすべての事物は友達の友達みたいな形で間接的に相関しており、情報や効果が波及する経路は無数にあります。また、意図とは違う情報がテキストに織り込まれることは普通です。そして、偶然の一致に意味を見出してしまうのは、人間の生得的傾向です。超自然的なものを仮定しなければ説明がつかないというとき、ほとんどの場合、物質に何がなしうるか、物理の範囲で何がおきうるかについて、非常な過小評価がおこなわれているのです。それは手品が不思議なのと理屈は同じでしょう。


Comments(in hatena)

滅・こぉる『部室であるということは、特定のクラブに占有されることを目的とした部屋であるということではないでしょうか?』
jouno『あーすいません、誤字修正しちゃいました。』
essa『私はjounoさんの書く文章には非常に共感を覚えます。それをなんとかして自分なりの言葉で表現しようとしているのですが、書けば書くほどくい違いが大きくなっているような気がします。その原因のひとつは、私の思索や言葉の使い方に厳密性が欠けているからだと思います。それは自分でももどかしい思いがありますが、一方で、jounoさんが議論の前提としているものはひとつの仮説であるし、別の前提から出発しても論理的な思索は可能だと思っています。どちらかが絶対的に正しいというものではなくて、どちらの前提がより面白い議論を引き出せるか、より有用な思索を産み出すか等の価値判断で使いわければよいと思っています。』
essa『それで、その前提のひとつですが、「わたしの「見え」はわたしを見る人がいなければ存在しないけれども、そのことはわたしがなくなるということにはならない」ここは同意します。それは、jounoさんの本質が「意識」であって「意識」は「物質」とは明かに違う性質を持っていると思うからです。ただ、「物質」が「意識」によって認識されない時に同じように存在しているか、そもそも存在しているかは明確ではないと思います。』
essa『つまり、私は存在するものは全て社会的事実であると考えています。「物質」というのは、その中でも特別な社会的事実です。それは、一定の手続きによって誰にでも同じようにその存在のあり方を認識できるからです。ですから、特定の人にしか認識できないリアリティを「物質」の別の形態と呼ぶことは適切でないと、私は考えます。これは単に定義の問題なのかもしれませんが。』
essa『ネット上のコミュニケーションについては、私はやはり「予想外の情報を創発」を考慮に入れても、物質、すなわち機械である精神にはここで起きているような対話は不可能だと私は思います。これはただの直観です。「物理の範囲で何がおきうるかについて、非常な過小評価」と言われてドーキンスが「地質学的時間を人間は直観的に把握できない」と言っていたのを思い出しました。それは同意しますが、意識の中で何が起こっているかについても人間は過小評価しがちだと思います。AIの研究が進めば進むほど、一般的知能の実現のめどが遠のいたことがひとつの根拠です。』
masah『blog/web日記って自分に何が起こったか、を記録することが多いですけど、他人について書き綴っていくと聖書みたいのができるかな・・・』
jouno『そうですね、ぼくも、自分のしたことはほとんどかかないで考えたことや見たことを書きます。その延長で、他者についてだけ語るというのもありですね。ヴァーチャルネットストーカーと似たようなものでしょうか。』
essa『私はこの対話を楽しんでいるし得るものも多いのですが、jounoさんをいらだたせているような気がします。少なくとも今回の私への問いかけには、いつものjounoさんの文章に見られる品格と明解さが若干欠けているような気がします。具体的には私への質問が多すぎて、時間的に全ての問いには答えられないし、全てに答えたとしても、ひとつひとつの回答がさらなる質問につながって発散してしまうと感じます。』
essa『そこで私はなぜこうなるのか考えます。可能性として思い浮かぶのは、1.私が真面目に議論してないとjounoさんが思っている 2.私が私の考え方や感じ方を明解に表現してない 3.私の考え方、感じ方とjounoさんのそれの違いが大きすぎる。1はまずないと思いますが、もしこれが原因ならそれは誤解です。私は(多少頭が悪くて頑固かもしれませんが少くともこの対話については)完全に真面目です。』
essa『おそらく2と3が半々ではないかと推測しますが、2が主たる理由であれば、基本的には私が思想哲学についてよく知らないことが原因ですから、私の立場を従来の哲学の流れにあてはめて、それをより明解に表現した上で論破すればよい、jounoさんならそれが可能だ、少くとももう少し明解に誘導していただくことが可能ではないかと思います。jounoさんにとっては面倒かもしれないけどいらだつことは無いのではないか、対話をうちきったってかまわないんだし。』
essa『ですから2は副次的なもので、3が主たる要因だと考えます。しかし、私の書いたテキストのどこに「めまい」を感じさせるようなものが、jounoさんのペースを狂わせるようなものがあるのか考えてみて、自分の書いたものに誤りやあいまいな所は見つけられるかもしれないがそういうものは全て冷静に指摘できるはずだ、原因となり得るものは私は書いてない、だからこれはテキスト以外の媒体で何かが伝わった、と(まためまいを感じられるかもしれませんんが)私はそのように直観するのです。素直に自然に私はそういうふうに物を考えます。というのが、最初の「具体例をあげてみてください」の回答です。』
essa『もうひとつこれは答えやすいので、AIの件について答えると、現状のAI研究者でなく最初期のAI研究者がなぜあれほど強気だったのかを問題にしているのです。ソースは失念しましたが、確か、60年代のAI研究者は「あと10年で一般的知能ができる」と断言していたと思います。その錯覚の原因は、計算機についてよく知らなかったからではなくて人間についてよく知らなかったからだと思います。その後の計算機の進歩は、当時の研究者の期待とそれほど違いはなかったのに、AIが実現できないばかりかどんどんAIの目標が後退していくのは、人間の自分自身に対する直観がいかにあてにならないかということではないかと。』
essa『残りについては後程順番に答えますが、できれば、優先順位をつけてひとつづつ答えさせていただけたらありがたいです。それと私にとてはこのような対話はかなりのエネルギーを要するので、すぐにはお答えできないこともあるかもしれないとあらかじめお詫びしておきます。私としては、もうしばらくおつきあい願いたいと希望しますが、あまりにも私が不勉強であるから話にならないとお考えならば、ストレートにそのように言って対話を打ち切っていただいてもかまいません。私としても自分で自分の無知がもどかしいし、自分に時間があったら1年くらいかけてjounoさんから思想哲学を基礎から順番にレクチャーしてもらいたいような気もします。ただ、そうしたら対話はスムーズに進むかもしれませんが、ギャップが明確になるだけ「めまい」はより激しくなると思いますが。』
tokyocat『ほんの一言。物質ってよく考えるとなんだかわからない、というかんじは、私としては、宇宙が有ること自体がとてもヘンだ、というのに近いです。essaさんの、意識は物質に還元しないんじゃないか、というもやもやした思いも、宇宙は説明できないんじゃないか、という思いであり、それもやはり意識が有ること自体がとてもヘンだという、絶対的な不透明さから来るのではないか、と私は受けとめています。その「語りえなさ」を「示す」ための捨て階段を、jounoさんは再三述べているのでしょうかね。』
FlowerLounge『spiritualなものの(物理的な)存在を、jounoさんはmatter、essaさんはentityに近いものとして捉えているようですね。』