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Drifting Antigone Frontline

2003/09/05 00:00 JST

死ぬのは当然怖い。 20:44

id:nazokingさんのところでちょっと書いたのだが、ぼくが死ぬのが怖いのは存在しなくなることそのものが理も非もなく恐ろしいからです。ぼくにとって、存在しない、自分が無になることほどおそろしいことはない。これは恐ろしいという言葉の語感よりも切迫した、感情的で非理性的な恐怖で、理由なんかは説明できない。おそらく生き物として、生に執着する本能があるからとしかいいようがない。そしてそれが普通だとぼくは思っていたのだけれど、ここ数年、ときおり見かける死についての言説を見ると、死ぬのが「怖い」のではなく「嫌」というタイプのものをけっこう目に付いて、びっくりする。なんというか、死そのものではなく、死にまつわる副次的な効果がいやだという感じ。うーん、そういうのを読んでいると、よかれあしかれぼくが「近代的」な人物なのかもしれないなあ、という感じもする。

娘と嬢(孃)の続き 19:11

http://d.hatena.ne.jp/hakuriku/20030905#p1

詳細な考証をしていただいてます。

篆書の段階では「娘」はなく、そして初出の段階ではすでに「嬢(孃)」と意味の区別があったということです。

まあ、これを見ると、もともと同じ字であったという言い方はかなり疑わしいですね。新潮の記事はやはりかなりはしょったものであるという感じです。

しかしこういう考証的な日記は江戸や中国の随筆みたいでなかなか面白いです。

関係ないですけど、やはり古典でむすめのことを女と書くのは最初はびっくりします。女って現代では情婦の意味があるのがまずいんでしょうけど。

プラトン風 07:22

http://www.alles.or.jp/~tsuruba/#0902

反論はしないで説明だけ。

知的じゃない理解というのはきわめて簡単なことです。ある文を読むことで私はその記述が伝えようとしている事実、知識を得ます。この側面を知的理解と呼び、わたしがその文を読んだことで私に生じる知識の増大以外の効果を知的でない理解の側面と呼んでいます。つまり、馬鹿といわれて、このひとはわたしを馬鹿と認識しているのだなと理解するのが知的理解の側面で、腹が立つのが知的でない理解の側面です。

で、馬鹿という言葉を利口という意味で使うことをきちんと取り決めたら利口という意味で伝わる、ということはもちろん前提にした上で、わたしがきちんと、あ、このひとはわたしを悧巧とみなしているんだな、ときちんと理解できたとしても、腹が立つことは否めない、そういうことです。わたしは、きちんと馬鹿という言葉を悧巧という意味で使っていることを理解していれば腹は立たないはずだという前提に対して、意識的に理解しているということは、無意識的なその言葉の効果をかならずしも左右しない、ということを指摘しました。そのような名目的な言葉の意味と背馳する言葉の効果の側面において、適切であったかどうかを疑問視したわけです。

相対主義考 03:15

http://www.geocities.co.jp/HeartLand/7251/sotaishugi.htm

リンクだけ。

id:tokyocatさん 03:09

そうですね……ぼくは、多分、不思議な現象を、霊的なものとして分類することで、そういう出来事を、わからないものとして、わかってしまう、片付けてしまう、そうすることで、わかろうとすることによってわからなさをきちんと明らかにするということをあきらめてしまう、却下してしまうように、思えるんだと思うんです。

理解不可能なものに驚くためには、ぎりぎりまで理解しよう。説明しようと悪戦苦闘することで、どうしても最後に残る、どうしても説明できない、そういう際まで追い詰められなければならないと思うんです。ホームズではありませんが。不可解なもののカテゴリーに分類することは、理解しようという行為の拒否だと思うんです。

ぼくは、霊的なものというカテゴリーを嫌悪するのは、そのカテゴリーが、事物を説明不可能なものとして安易に棚上げするからです。自然科学者はこの物質的世界を、自然を対象として恋愛していて、だから相手のことをもっと知りたいのだと思うのです。世界は謎に満ちている。だからこそ美しい。そして世界が存在することほどわからないことはない。おそらく、わたしにとって、オカルトは偽の解答によって解答を得ようという試みを阻害するから好きになれないのだと思います。

科学主義はいけない。 02:55

http://www.meken.med.kyushu-u.ac.jp/~tosakai/scientism.html

ぼくは科学主義は科学の暫定的性格を無視しているという意味で信仰だと思います。

テキストサイト界隈 01:56

http://d.hatena.ne.jp/kowagari/20030904#1062635416

ぼくもそう思います。テキストサイト界隈というのは2chの存在というのが大きいんだろうと。報告型リンク集もあるでしょうけど、コミュニティ形成としては弱い。世論形成のためにはみんな見る場所が必要なので。ジャーゴンもあそこでつくられてるんじゃないかな、と過大評価は禁物ですけど。だとしたら、ブログというかtDiaryもふくめて、リファラやトラックバックで、あたらしいサイトへのリンクが動的に加わっていくサイトは、中心がなくても横につながっていける可能性があるので、むしろポータルを作らないことのほうが重要なのかもしれないとも思います。JBAのときもそうでしたが、サイトの間でのコミュニケーションを支援するというのが筋であるということは、コミュニティサイトをつくるというのとは方向的に違うんですよね。コミュニティサイトをつくるということは、結局、サイト間のものをひとつのサイトに閉じてしまうわけで。中心を持たないけれどもつながってはいる状態がいいんじゃないかなあと。つまり、コミュニティをつくらないコミュニケーション。

つまり、多分、その時々で話題になる場所が固定しないということが大事なんだろうなと。もっとフラットでなくてはいけないということなんじゃないだろうか。

テキストサイトとweblog 続き 02:09

http://d.hatena.ne.jp/tenkyoin/20030904#p1

これも面白いです。

実際にはブログというのはp2pなつながりかたをしているので、ずっとせせこましいつながりかたをするものだと思うんですよね。記事中心だということは、記事レベルでしか注目されないということで、サイト単位で「ウォッチ」されにくいということでもありますし。

まあでもそれこそ、普通の日記とどう区別するかといや気持ち次第ということもあるんで、幾分これは誇張したものいいになってしまうのだが。

id:kosekiさんへ 01:15

えーと、すいません、問題はですね、実はそれは二次的な存在と一次的な存在の区別であって、一次的な存在の区別ではない、ということなんです。

つまり、霊的な存在というものをたてることは、ぼくは反対してません。そういうものを経験する人がいること、そういうものとそうでないものを区別してしまう人がいること、そういう区別に対応した言葉の区別の必要があるということ、そのことに反対しているのではないのです。

そうではなくて、霊的な存在はものとしての存在ではない、という考えを批判しているのです。霊的な存在は心理的で社会的なものとして物質的存在です。つまり、霊的なものは一次的に存在するものの二次的構造として存在しているわけです。それを、一次的に存在するかのようにいうことが、カテゴリー・エラーである、ということなのです。

霊的な存在を立てることは可能だけれども、一次的な存在のカテゴリーとしてたてることはできない、それは二次的な存在だから。だから、一次的な存在に霊的な存在というものを別に立てることはできない、そういうことです、いいたかったのは。

例をあげます。もちろん、わたしは、椅子とテレビの中の机を区別できますし、すべきです。しかし、同じ水準で存在しているのは、テレビと椅子であり、テレビの中の机と椅子ではありません。視覚の対象であるという理由で、椅子とテレビの中の机の映像を存在論的に同列にあつかったとしたら間違っているでしょう。ぼくがいいたいのはそういうことなのです。

また、ぼくの説明不足だったと思いますが、一次的というのは、経験にとって一次的という意味ではなくて、存在の側のオーダーで一次的ということです。

それから、ややエキサイトした書き方をしてしまったことをお詫びします。

コメント欄へのご返事 00:31

えーと、いらだったりしてるわけではないです。失礼な物言いになってたら申しわけありません。僕は本当に、物質から独立した精神を本気で信じている人がいるということが本気でショックだったんですよ。実を言えば、そういうものを信じることそのものが、ぼくには、理屈の上では信じる人がいることは想像できるけど……という水準の話なんですよ。だから、わたしは、いま、わたしにとって、ものすごくとっぴに聞こえる、そちらにとってよりもはるかにおおきなギャップを埋めようとしているのだということはご理解ください。いや、ショックというか、びっくりした、といったほうが正しいでしょうか。

コミュニケーションで、何かが伝わったというので、そこでなにか不思議な経路を持ち出すのは無理ですよ。というか、文面から予測できない反応を相手がする、というのは、読みの経験において、ごく普通のことで、そういう場合、文面だけでは相手の反応が規定されてない、というだけのことだと思います。あるテキストへの反応はそのテキストだけから構成されているわけではない。また、相手がどう解釈するかもさっぱり予測できない。それはむしろ当然のことです。まるでわたしとあなたがネット上だけで存在している機械か何かなら、その反応がテキスト外の情報に基づいてるのは不思議かもしれませんが、そういう場合だって、反応の仕方はいくらでも多様でありうるでしょう。だいいち、そういう不思議な(失礼)仮定をするためには、受信されたものが送信されたものと同一であるといえなくてはならない、すくなくとも、送信側の状況と受信側の状況が、なんらかの相関関係を持たなくてはいけないでしょう。そういうことがなにか想定できるんでしょうか。また、これも再三強調させていただきますが、そういう不思議な経路があったとして、それをどういう理由で非物質的なものとみなさなければならないのかもわかりません。

質問が多いというのは、実を言えば、僕が発している質問はすべて、ひとつの質問の系に過ぎません。わたしは同じただひとつの問いをいろんな角度で繰り返しているので、むしろ多様性がないと自分では思っています。すなわち、存在のなかに霊的なものというカテゴリーを別に立てなければならない理由は何か、そしてその場合、霊的なものとそうでないものは、どういう基準で区別するのか、本質的にはこれだけです。ものであるとはどういうことか、ものにできないことがあると考えるのはなぜか、それはたとえばどういうことか、というのもまったく同じ論点です。

それに私の問いは大半はむしろ反語、そういうことがありえるんですか? (ありえないでしょう)という意味なので、必要を認めなければ質問としてお答えいただく必要はかならずしもありません。

それから、一応書いておくとわたしのほうは直観を論拠にはまったくしていません。とくに根拠として使用できる理由が主張されない限り、ぼくには、直観を論拠として出されても、「感想」としてそうですかと聞くほかありません。できれば、直観を論拠として出すのは勘弁してください。ですから、AI研究者の直観が間違っていたとしても、それは直観や自然科学の理論は当然間違うこともあるでしょうね、ということです。精神が機械であるというのは哲学水準の議論で、自然科学の、つまり、人間が実際にそれをつくれるとか、いつごろつくれるかとか、そういう経験に依存する議論とはレイヤーが違います。もしかしたら、人間にはあと数万年かかってもAIをつくれないかもしれません。ですがそのことは、精神が機械であることの反証には微塵もならないのです。

うーん、このへんも表現が不穏当な感じもわれながらしないではないですが、あの、ですね、直観を持ち出されると、ちょっと、どう対応したらいいのか、わからないのです。ありそうにない、とか、それが素直である、とか、自然である、という水準の話だと、共通の前提を作るのがむずかしいのではないでしょうか。


Comments(in hatena)