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Drifting Antigone Frontline

2003/09/06 00:00 JST

相対主義 23:35

http://d.hatena.ne.jp/lenn/20030906#p1

ぼくの日記での相対主義への言及はうえの検索窓から。

相対-相対主義がむしろ普遍への回路をもつことを意味するあたり、言葉って、むずかしい。ていうか、この主題、この一年ばかり、くりかえしすぎるくらい言及してきた気がする。

ヒラリーを大統領に! 06:06

http://www5.big.or.jp/~hellcat/news/0309/05a.html

というわけで、いっしょに夢を見ないか?

よくあつ 21:42

http://d.hatena.ne.jp/herecy8/20030906

抑圧一般、とくに社会的で相互的な抑圧はなくならないと思うんですが、ぼくは島宇宙化が島宇宙をゆるさない構造より抑圧的ではないとは言えないと思うんです。すみわけを許す一方でその「区画整理」は強度に管理されている。その意味で、ヒエラルキー的な抑圧構造は社会の大構造として依然として優勢なんじゃないかということです。

「プラトン風」 反論 22:28

http://www.alles.or.jp/~tsuruba/#0902

最初に今回の反論は正直、僕の文章については的外れなものが多く、あまり生産的ではないと指摘せざるを得ません。すくなくとも、ぼくの文章の読みにおいてはほとんど失敗しておられます。

1 「プラトン風の愛」を「精神的な愛」と書き換えることは、それは一部の読者に対した都合の良い言い換えでしかありません。本来の意味の豊穣さを無視した用法だと思います。端的に、固有名詞の残滓が排除されてしまい、作中のいくつかの舞台設定を無視した記述になるためです。何故、舞台が南仏になったのか、また■■■■がそのような人物造形になったのか、騎士道や吟遊詩人が引き合いに出されている理由とはどういうことか、それら言葉の配置の諸目的が宙ぶらりんになってしまうのです。逆に「精神的な愛」としてのみ読んだとするなら、誤読にとても近い読み方です。誇張した表現ですが、足に傷を負った患者に、破傷風の可能性があるからといって足を切断するような行為に思えます。是非、言葉の配置の諸目的を失わぬままに言い換えをしていただきたいと思います。そうでなければ、それまで小説が積み上げてきた文脈の過程を無視していることになります。ちなみに並記による内容の引継説は、意図に関する理論というよりも読解に関する理論と表記したほうが正しいと思われます。もちろん慣習に関する理論でもありません。

ここでは、具体的に、「プラトン」という固有名詞の出現の必要性の理由が述べられていません。また、フランス語という制約をはずしたなら、プラトニック・ラブではそれらの条件はパスするのか。また、具体的に、そのような「配置の諸目的」の具体的内容が見えません。たとえば、「騎士道の話」と「プラトン風」という表現の必然性は? ここでプラトニック・ラブとたとえば振り仮名で書いた場合はどうなのか。つまりこの反論はあいまいすぎて、言い換えが、あるいはこの当該の表現がパスすべき特定の条件が示されていません。

 だいいち、そのような固有名詞の残滓、コノテーションの存在や有効性を否定しているのではなくて、その存在、有効性をまさに主張した上で、だからこそ、適切性を批判しているのです。存在しないものや、あっても影響力のないようなものの、影響の適切さを論じる意味などないでしょう。影響力があるからこそ問題視したわけです。わたしはいままで、蔓葉さんのほうが、そのような含意の存在感を否定して名目的な意味が知的に伝達されれば含意は問題ではないと主張しているのだと理解していました。この点、後述の論点につながりますが、わたしは論旨の不整合を感じます。

2 jounoさんのこの文章はいまいちつかみどころがわかりかねますが、仮に意味の雑音説と、言葉の必然性説としましょう。まず、前者について語ってみます。jounoさんと違って、僕は、何かの文章を読むとき、人はなんらかの知的な理解の仕方以外に読むべき方法を持たないと考えています。しかし、jounoさんは知的理解ならざる理解によって読むことがあるとおっしゃっていますね。非知的理解というものを僕は行ったことがないのでいまいちよくわかりません。それでもなんとか何らかの理解なのだろうと類推して考えてみますと、ある文脈中に提示された「プラトン風の愛」という表現が余計な連想を生み出したり、意味上の曖昧さを生むとおっしゃいます。そこには、すでに判断されている余計なものや曖昧なものがありますね。それらは知的な理解ではないなんらかの方法に導かれたものであるはずです。しかし、知的ではない判断というのはどういう対象を生み出すのでしょうか。いいかえれば、余計かどうか、曖昧かどうかは常に知的に下されるべき判断だと考えます。でなければ、判断ではない何か別のちからがそこに働いているからと思えます。

「理解」と書いたから知的なものしかないとおっしゃるのかもしれませんが、ぼくのいってることはカンタンです。読むことの認識以外の効果です。ある虚構の文章記述を読むことは、その記述が伝達しようとしている出来事への知識をわたしに与えるとともに、わたしにその知識以外の効果を与えます。そうでなければ、読書が娯楽でありえることもないでしょう。わたしは怒り、泣き、笑い、楽しむ。それらはたしかにおおむね、知的理解の効果でもありますが、たとえば、わたしが言葉に無意識に反応して感動したとして、それが、その部分の記述の与える知識の効果ではなく、その記述のされ方、言葉遣い、表現法の効果であることもあるでしょうし、もっと端的に、わたしがかつてつきあった女性の名前が不意に出てきてほろりとした場合などは、純粋に記号だけが問題になります。わたしの読書における反応は、その読みによって得られた虚構世界に関する知識によってはのみ規定されているわけではないし、言葉の名目的な、文脈的に規定されている意味だけで規定されているわけではない、そういうことです。

また、余計,曖昧というカテゴリーは、反省の時点であらわれるもので、経験の時点であるものではないでしょう。わたしはそのようなことを問題にしているのではまったくありません。また、語の意味のレベルでの余計,あいまいということを問題にしているのでもありません。語のレベルではなく、小説のレベルでの、言葉の名目的な、意識的に推測され、憶測される、作者の意図に沿った読み以外の、不可避的に言葉が持ってしまう含意や、その言葉のそうした名目的意味の認識以外のわたしにおける(感情的、無意識的、身体的)効果において、プラトン風という表現は適切なのか、ということです。

また新たに提示された雑音という概念ですが、大前提として下記のことを明記します。如何なる文法的方法を尽くそうとも、言葉から雑音を排除することはできません。もし言葉の意味には主となる意味と、主ではない意味があるとするならば、それらの総体をひっくるめて言葉の意味だと考えます。そもそもこの意味の比率については固有名詞の総体説でも主張していることです。ある言葉を読むときに、その言葉から雑音と思われる意味を取り除いた意味を感じさせる言葉に置きかえたとしたら、それもはや別の創作であり、言い換えでも誤用の訂正でもありません。たとえば、わたしとあなたがいまこの瞬間から馬鹿という言葉を利口という意味で使おうと取り決めたとしても、それで馬鹿といわれたときにむっとすることを排除できない一方で、事前に適切な説明が行われていたり、何らかのふさわしい状況にいるとするならば、馬鹿という言葉が利口という意味で伝わり得るということです。ひょっとすると利口という言葉で伝わる以上に相手に伝わるやもしれません。確かに「プラトン風の愛」という表現には通常使われている言葉とは別の強さを持っています。そのことを否定したことはありません。しかし、固有名詞の豊穣さを失わせての、ある特定の意味の排除を誤用の訂正とはいえません。

ですから、伝わるということを少しも否定してなどいません。また、雑音一般を否定していたりもしません。とくにこの部分はわたしの意見に対する批判としては的外れです。利口という意味であることを頭でどれだけ理解していても、「同時に」馬鹿といわれたら腹が立つ,その部分を無視しているのではありませんか、と問うたのです。わたしはここで想定されているような議論をしているわけではまったくないからです。わたしはまさに、意味の総体を考えるべきだといっており、わたしはあなたこそが、そうした意味の豊穣さを無視して、名目的な意図どおりの意味が伝達されればいいと主張しているように理解していたのですが。つまり、プラトン風=プラトニックという名目的な意味だけが伝わればいいと。わたしは意味の豊穣さを否定しているのではなく、この特定の場合において、その余剰部分が、小説論的に、ここで適切なのかと問うているのです。つまり、この含意ではなく、別の含意をもつ別の言葉のほうが、その豊穣な含意の部分においてより適切だろう、そういっているので、含意の部分が無用だなどとはまったく主張していません。ですから、精神的な愛というよりも豊穣な意味が必要であれば、別の言い方を求めればいいのです。いいですか、精神的な愛という言葉を持ち出したのは、あなたが、プラトン風がプラトニックの意味であることが伝わるのだからかまわないではないかといったからです。そのような主張は、あきらかに、豊穣な含意の部分の影響力、有効性、存在感を無視しているでしょう。最後に、すでにすくなくともわたしは誤用の訂正ではなく、この部分でその表現をすることは、そうした含意の部分において、小説のしようとしていることという観点から、不適切で、別の表現のほうがいいのではないか、なぜなら、プラトンに言及することで喚起される含意、イメージは、本来作者が、プラトニックラブの意味に言及することでここでこの言葉に果たさせようとしていた文脈の中の役割にとって、不適切だと考えられるからだ、ということを論じていたはずです。作者が、プラトンに言及することで、プラトン風恋愛というプラトニック・ラブのもともとの意味と、ここでのこの言葉の意味合いとを二重写しにする意図、およびそれが効果をあげるような文脈がここにあるのなら別ですが、そのようなものがないのなら、余計な文脈を導入することは、小説論的に、ノイズとしてしか働かないのではないか、そういうことです。じっさい、プラトン風恋愛と表現することが問題なのではなく、通常と違う言葉遣いをして、プラトンの教説や恋愛実践へのイメージ、連想を喚起しておきながら、そのことがまったく余計な効果にしかなっておらず、それをプラトニック・ラブの意味として読むという読者にとっての手間を増すというデメリットに対して、つぐなうだけのメリットになっていない、そういうことを主張しているのです。

なお、ここでノイズというのはあくまでも小説論的な文脈での話で、もちろん、言葉そのものの意味には雑音というものはありえません。ただ、小説は特定の方向へ想像力を喚起して操作する側面が不可避的にあり、すくなくとも作者にとってはそのように構成されるものである限り、ノイズという概念はこのレベルでは意味を持つ、そう考えます。

残りの部分はすでにわたしの議論に対する批判ではありえないことはすでに証明済みだと思うので述べません。わたしは誤用かどうかではなく小説の中の表現としてのこの特定の場所での適切性を論じており、知的でない理解という言葉も蔓葉さんがわたしの文章から誤解したような意味でないことはすでに述べたからです。

追記しておきますと、わたしが非知的理解で語っているのは、不可避的に喚起されてしまう含意のことが主なので、もちろん、個人的な感情的な反応といった種類のことをいいたいわけではありません。また、わたしの主張は言い換えると、プラトンに言及したのなら、なぜプラトンをもっとからめないのか、プラトンをからめないのに、プラトンをあまりにもつよく喚起する表現をするのは、読者の想像力をミスリーディングするという意味で、小説の書き方としてノイズではないのか、そういうことです。たとえばプラトン風恋愛という表現をすることで、プラトニック・ラブという概念に批評的スタンスで望むような小説なら、当然のことですが、このような表現をすることは完全に適切です。


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