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Drifting Antigone Frontline

2003/09/10 00:00 JST

不連続なもの 00:04

http://amrita.s14.xrea.com/files/zapping.html

ぼくは不連続なものは存在しないと思います。例にあげられたものはすべて、単に人間の意識がその連続性を直接には観察できないもの、意識できないもの、あるいは言語の問題と存在の問題を同一視した結果出ているものにすぎないと思います。たとえば、アイディアが突然誕生するということについてだけいえば、わたしが車を組み立てるとき、それは組みあがるまで車ではありません。組みあがった瞬間、それは突然車になります。組みあがっていない車の部品の集積は、組みあがるにつれて徐々に車になっていくのではなく、突然、組みあがった瞬間に車になります。しかしこのことは物理的連続性をまったく破壊していません。それはあるものを車と呼ぶかどうか、という言語や認識の基準が不連続だからで、対象の側に不連続性があるわけではありません。意識についていえば、無意識という範疇がすっぽり抜けているように思います。意識されるものだけが存在していると考えられているような感じを受けます。自己意識のレベルでの不連続性は、無意識での連続的な過程が編集されて意識に提供されて認識されるからおきるだけだと思います。ぼくとしてはライプニッツが導入した無意識という概念とその発展であるフロイトは見過ごせないとおもいます。不連続性は、意識が、対象世界に、認識へと変換するときに持ち込むものであり、対象世界に存在するものではない、わたしはそう考えます。

主体は世界に属さない、というのはまったくそのとおりです。注意すべきは、この独我論的なレベルでの、主体は対象、もしくは物質ではない、という主張が正しいということは、主体には、物質とは別の媒体がある、という主張につなげてはいけない、ということです。ここは注意深く見るべきところです。まず、幽霊が存在するというのなら、それは、対象としての存在です。幽霊は私ではないのですから。主体が世界、対象、物質に属さないという論理のレベルでは、主体とは私の主体、私の意識であり、他者の精神、主体、意識をここで仮定してはいけません。哲学的レベルで、あるいは、この主体は世界に属さない、という論理のレベルでいうなら、主体とは私の主体のことだけを意味します。もしも、主体、意識という意味での私が他者にも存在し、またわたしの主体、意識を他者にとっても存在するものとみなす、「共同主観性」を認める立場に移ってしまうのなら、主体としてのあなたは認識対象になっていることになるわけですから、世界、存在、対象に属します。しかし、この対象、世界、存在としての私は主体、意識としての私とは別のものであり、その意味での私は世界に属さない、というのが、はじめの論法でした。したがって、この意味での主体、意識、見るものとしての私は、共同主観性には属さない、まさにこの私、独我論的な意味での、唯一の私のことです。そしてこの私についてなりたつ、世界に属さない、ということを、私ではない、認識の対象であるところの幽霊に適用することはできません。わたしが反対しているのは一貫して、見られるもの、対象としてあるものとしての幽霊が「存在」をもつということだからです。そもそも、主体としての私は対象としての世界に属さないというのは、哲学の問題で、物理とは矛盾する部分はまったくありません。見る主体と見られる世界の違いは、この私にとっての私という独我論的な論理についてだけいえるので、この論理で考える限り、意識一般とか主体一般とか、他者の主体というのを考えることはできません。また、かりに共同主観性の次元で、そういう主体の複数性を認めるならば、今度は、意識や主体が、対象としての世界に属さないという主張する根拠はなくなります。まさしく、主体は認識されている、ということ、見られている、ということになるからです。つまり、共同主観性のレベルでの主体、意識はすでに見る私ではなくて、見られている私なのです。ですから、私は、私にとって、この私しか本当には存在しない、それ以外のものは、私の経験の対象であるに過ぎない、そういう意味で、対象として存在することと主体として存在することは違う、ということを主張されているならば、そのかぎりで異議はありませんが、それはまさにこの私にとっての私にだけいえることなので、それを霊的なものとかオカルトの文脈とつなげるのは無理だと思います。

まとめると、世界に属さないという意味で、哲学的な意味で、「観察するもの」なのは、独我論的な意味での「私」ただひとりだけで、それ以外の「観察するもの」を仮定することは無理。もし「観察するもの」の複数性、つまり私以外のものも「観察している」と主張してしまうと、「観察しているもの」は「観察されているもの」ではないという主張は崩れる。(厳密にいうと、崩れるわけじゃなくて、「観察するもの」の意味が変わってしまうので「観察されるもの」の効果として「観察するもの」が存在する、という論理を否定する根拠が崩れる、ということ)したがって、「観察するもの」と「観察されるもの」には存在論的な範疇が違う必要があるというのはまったくそのとおりだが、それは「私」と「私以外」あるいは「私」と「世界」の違いを意味するので、通例オカルトなどでいう霊的存在の問題とは無関係。


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