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Drifting Antigone Frontline

2003/09/18 00:00 JST

はなのしたにて 22:37

http://homepage3.nifty.com/tamakis/%8C%93%96%7B%8D_%97S/Knemtoppr4.html

 花は樹木の排泄物である。と、書くとまるで何かの真理を語ってるみたいだけど、おそらく気のせいだ。グリーン・レクイエム。緑は恐ろしい。つきは地獄だ! 地球の長い午後。花びらが、しかしともかく、かさぶたのように皮膚から剥がれ落ちたものであり、滓であるというのは、いっていいような気がする。記号の記号としての花びら。無効な記号。

 黒髪で絞殺。これはイディオム。

 エアリエルと詩とマジック・キング。さようなら。まわりをめぐる。風博士。シェイクスピアを読むたびに機知というものの侮るべからざるところを思い知らされる。

 なんだっけ。真っ赤な椿が沼に落ちる落ちる落ちる。

 漱石。

 水の女。かがみ。佐藤春夫。おきまりの連合。

 アルンハイムの地所。

 かがみ 17:51

 テレビはかがみなのだ、という思いつきが降りてきたので捕まえた。テレビがかがみなのはそれが照明のなかで見られるから。だからそれはマジック・ミラーとしてかたられることをゆるす。そこからふたつのことが云えるように見えた。かがみなのだから、テレビを見るときひとは自らの顔を見ている。そしてつぎに、マジック・ミラーなのだから、テレビを見るときひとは向こうから見られている。気持ち悪い。

 何かが間違っている。

 間違っているのはわたしのThoughtなのか、Televiか。混濁した思いつきはむしろ廃棄されるべきなのかもしれない。死の衝動への近しさが文に退屈を浸す助けになっているのだろうか。のろのろと進むのを拒む言葉の退屈さ。

 しかし考えるな、まずタイプせよ。格言はつねに気持ちを落ち着かせる。意味するもの、意味されるものという対比が現象学に由来することを知って驚いたりしているうかつさ。存在と存在者の違いはノエシスとノエマからきているとかそういう話。コトとモノの違いは作用と対象の違いなのだといわれてみるとそういえばそうだ。

 エチカ。「『自己原因である』ということで私は、その本質が現存を含意する、つまり、それがその本性から云って存在している形でしか考えることができない、ということを意味する」

 定義上存在しないことが考えられないものとは神のことである。という町のうわさ。卓越的に必然的な存在者とか、そんなの。

 しかしぼくにとってないことが考えられないのはぼくだから、ぼくは神である、はずはないな。述語の連鎖によって同一性を構成してはいかん。長いすに寝そべって自由連想するはめになりかねない。

 インヴィジブル・マンが見えざるものとしての数に入らないものを語ったとすれば、むしろいま心に懸かるのは隠れ得ないもののことだ。隠れ得ないがまた、数えられもしないもの。個人としては見えず、数えられない。だが、ある類のメンバーとしては隠れ得ない。隠れることによってはじめて、見えるものとなる。そういうありようにとって、見出されることは隠れ得ないことに過ぎない。見えることと見出されることの一致と不一致。

 ロートレアモン伯爵 そして あるいは イジドール・デュカス コミューンにて 20:46

 老いたるわだつみよ、おお偉大なる独身者、あなたが、粘液質の王国の、壮麗なる孤独のなかを疾駆するとき、生まれながらの華麗さを、また捧げずにはいられないぼくの心からの讃美を、あなたが誇るのはとうぜんだ。至高の権力が恵みたもうたさまざまな性質のうちで、もっとも偉大なるもの、悠揚せまらざる壮大さをゆるやかに発散して、恍惚として身をゆすられ、おのが永遠の力をしずかに感じながら、あなたはくらい神秘のただなかで、高貴なる全表面にたぐいなき波浪をくりひろげる。

『マルドロールの歌』栗田勇 訳

 すなわち、海はrock’n'rollする。テンペスト!

 本当はエルマフロディットへの賛歌を全文引用したい。青柳瑞穂訳で。

 マルドロールはパリに跋扈する。コミューン前夜のパリを歩き回る誘惑者。自称するところの吸血鬼、神への挑戦者、人類の敵。この青年は神経症的なくらい顔つきで人目を避けて歩く。包囲された街。笑うことのできない男。眠りを恐れる海と数学の崇拝者。

 ミランダとコーディリアというテーマ。

 ライオスを殺すマルドロール?

 マルドロール対ツァラトゥストラ? 夏休み東映マンガ祭?

 なんだそりゃ。

 アーカイブがデータベースになるのは、キーによる検索が可能になったときである。ゆえに、過去の遺産を文脈から切り離して利用することだけでデータベースの比喩で語ることは危険だ。萌えとは検索キーなのであり、googleの検索語なのだから。リミックスはきわめて古いが、普遍的インデックス化は近年の出来事だ。少なくともそんな感じがする。ピタゴラスの夢想。万物の固有の数字。id number。

 したがって、マルドロールたらんと欲すればインデックスにこそ呪詛を向けるべきなのだろうか。だがラビリンスで迷うこと、ペテルスブルクの偶然の出会いを愛好することは、不利益でもあるのだが、利益など、と威勢良くいうにはブルジョワでありすぎる。

 検索キーとは固有名詞だ。固有名は、ひとのいうところでは、特殊なインスタンスだそうだ。スコープが限定されているとか、何とか。したがって、固有名を取り替えることは有効だろうか? 追跡可能性を破綻させるには、一対一対応を壊す必要がある。

 試み:固有名とそれにまつわる歴史を交換するマーケット。コテハン・エクスチェンジ。

 アーカイブは生きている。だから、クロウラーが必要だ。インデックス状態とアーカイブ状態の差異こそが生息の場。隠れる、見えるものとして。意味するものとして見えぬものとなり、意味されるものとして見えるものとなること。

 答え:よく分かりません。早口言葉ですか?

 問い:ある意味そうです。

ウィニコットは、「“主体が対象と関係する”その後に(対象が外的になるに従い)“主体は対象を破壊する”そして“対象は主体による破壊から生き残る”」(p.126)と述べている。つまり、赤ん坊が最初に対象と関係する場合、それは外的対象としては認識されていないのだが、それが外的対象、現実的対象だと認識され始めるにしたがって、赤ん坊は対象を破壊しようとする。しかし、いかに空想の中で対象を破壊しても、実際に対象が破壊されるわけではないので、対象は存在し続ける。破壊の後も対象が存在しているからこそ、それは真に現実的な対象となり、主体は生き残った対象を使用することができるようになる。

http://www.asahi-net.or.jp/~rt8s-ymtk/seisinbunseki/winikoto.html


Comments(in hatena)

harunoriyukamu『おじゃまします。『鏡のテオーリア』で名高い多田智満子さんが「ふたたび鏡の威光について」という短い随想の結びで「テレビ画面こそ、〈鏡的なるもの〉の現代的な、卑俗化された、しかし雄弁な啓示」と見立てたことを思い出しました。チト古い話になりますが『現代思想』1994.12 (vol.22-14) 特集〈表層のエロス〉収録のエッセイです。jounoさんは既に御存知かとも思いましたが、ほかの読者諸氏の参考になるやもと思い投稿しました。』
jouno『いやぼくは迂闊な思いつきを記したのです。思いつきはつねに思い付きであるという理由で誰かに言われたことなのでしょうね。ありがとうございます。映画が自分の夢を見ることならテレビは自分の像を見ることなのでしょうね、なんていってしまうとそれこそラカンを半端に持ち出す愚に陥りそうですが、てんでラカンがなにいってるか分からなかったりするのです。』