■ 成長しない
http://d.hatena.ne.jp/crossage/20030928
よくわかる。成長なんてうそにきまってる。とくにヒーローというのは同一化で、むしろ退行だろう。だが、経験のインパクトに不感症なのも気色悪い。あと滝本さんは制作側に感情移入してるから、ヒーローにすることの安易さに敏感なのではないか。感情移入のフェーズの違い。というか、アムロだってべつに成長なんかしてない。モデルに同一化しないで葛藤の解決をはかろうとする、というのもひとつの倫理的な、というか、よりリアルに思える態度ではないだろうか。
■ 消費する 動物化 オタク
http://d.hatena.ne.jp/kowagari/20030928#1064717940
生産しない消費者がオタクを名乗ることは恥ずべきことじゃないのだろうか。オタクであるというのは、もともと、なんらかの形で、生産すること、作り出すことではなかったか。作り出すものがコレクションであれ、やくたいもない薀蓄であれ、どうしようもない二次制作であれ、それらはそれでもなお個性的な(すなわち反復強迫的な)アウトプットだったはずだ。リアクションという屈折した形でではあっても、個性的なアウトプットを形にすることを求めずに、ただメディアの行き詰まり、最後の受け手、飲み込む口、穴になってしまえば、それがただのマーケティングのジャンルの名になるのはわかりきった末路ではないだろうか。(過剰な消費は売り手に追いつかれ予測された時点で価値を失う)(消費行為そのものがほかの誰かの消費に連環しえないような消費は十分に消費であることにすら失敗したのではないか)屈折を与えて投げ返す、色をつける、二次加工する、商業作品を「素材」にかえてしまうことで、消費者が生産する消費者になること、そこにオタクの肯定的な側面があるとすれば、語らず、作らず、ただ享受するオタクの側面をオタクと呼ぶことは苦々しいアイロニーにしかならない。(二次加工でない加工はなく、加工でない生産はない)矜持にすべきは「役に立つ」ものを「生産」するのではなく、ただその作り出し投げ返す営為の向かう目当てそのものもまた社会の評価によらずにみずから設定したものだということだろう。それを趣味というのはそれこそきらめくアイロニーなのであり、決して社会の評価よりも落ちるものだと認めることではない。すごい人とはすごいとされていることをする人ではない。すごいことを考え出し、それをすごいことだと認めさせるひとのことだ。というよりも、すごいとこちらが勝手に認めるのにそんなことには顧慮しないことこそが核心だろう。すごいことだと認めさせようとしているうちはすごいことをしているわけではない。(選択するのではなく。自己決定の倫理は選択権でしかなく、選択肢の制作権ではない。消費者になる権利。それはありがたいマーケットへの入場券。ただし、貧乏にはお断り。)(あるいは貯蓄しないこと。コレクションは貯蓄に対立する概念である。コレクションは異なるものによって構成されるが、貯蓄は同質なものによって構成される。)
よき中継機であること。
動物化という言葉遣いを耳にするたびにドゥルーズのことを思い出す。動物になることは快楽自我に身をゆだねることではなく豹変する君子となること。規範の強化が叫ばれることにもうすこし抵抗すべきではないのだろうか。トーテムを呼び出し、もろもろの動物の個性的な倫理を記憶のうちに喚起する。天下国家をうれうことなく、なんとしてもうれうことなく、しかも同時進行する無数の悲惨や死に耳を済ますことを止めないこと。規範の強化ということを口にするときひとはひとびとを操作する主体になりはしないか。ニーチェはたしかにひとは暗黒時代の無数の残忍な刑罰によって約束を守ることができる存在となったのだという寓話をかたるのだが、宗教でも道徳でもなく、むしろ、想像力、とりわけ、畏怖の感情、それはすなわち芸術の力こそが問題なのではないかと照れもせず考えはじめる。私が殺さないのは取り返しのつかないことへの畏れ、自己保存感情とは異なる畏れがあるからではないか。いまだせいをしらず、いずくんぞしをしらん。結局なんでもかんでも中庸の徳だの、やむをえず良心的エリートが指導的地位をだの、まるっきり「ブルジョワ」じゃないか。
批判していたら批判相手が案外弱くて困った、というような言説の形はくだらない。創造のための破壊という発想もくだらない。破壊すべきものは徹底的に破壊すべきだし、それはなにかの前提なんかではありえない。代案もなく批判していたせいで既成の案が駄目になったら慌ててそれを擁護しだすことほど不覚悟なことはない。ただのヘーゲルの二番煎じじゃないか。青春と成熟、主人と奴隷。依存しあう鏡の夢幻劇……という発想こそがどうでもいい。世界の卵、雛型、代案を勝手にこのいまここに作り出すこと、延期された約束ではなく、困難なミクロな現在における未来の開口部を維持すること。どうして親父の背中が小さくなってちょっと悲しいみたいなお粗末な感傷劇をそう何度も繰り返さなければならないのか。祝祭はガス抜きでも再生のための死でもない。死であるところの生だ。
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