■ 萌えを肯定する気にはまったくなれない
さいきん、萌えという言葉の適用領域がむやみに拡大してる気がしてやな感じだ。私は何かに愛着を感じたり欲望を抱いたり好きになったりするが、それは萌えとわたしは絶対に呼ばない。わたしが萌えという言葉やそれが意味する姿勢が嫌いなのは、基本的なニュアンスに、受動性があるからだ。萌えは、反応であって能動ではないし、自己充足的で、愛の持つ不安定な過剰さを欠いている。わたしにとって、愛着は恐怖と一体だ。すくなくともわたしは自分が何かの記号に自動的に反応することを肯定的に名指す気にはなれない。わたしは自分の欲望が類型でしかありえないことを認識しつつそのことを肯定しない。わたしはひとと、そういう無意識レベルでの何かを共有したくない。わたしは自分の趣味嗜好が安定的に名指され位置付けられることを望まない。わたしは自分が何を好きか知らない。そして、そうあるべきだ。わたしは自分を同定したくない。どうせ同定せざるをえないのだから、望んですることはない。
ある何かを好きな自分が好きという構造の自己肯定がわたしは嫌いだ。
わたしが嫌いなことを免れているかといえばまったくそれは別の話に決まっている。
わたしはわたしの趣味嗜好を懐疑する。わたしがあることを好むのは不正な理由ではないのか? わたしはわたしであることから逃れられないのか? わたしはあることを好むことで何かに荷担してるんじゃないのか。わたしは神経症的か? わたしは本当にそれがすきなのか? それを好きになることで幸せになれそうだというような姑息な無意識があるんじゃないのか?
わたしはわたしの理屈と理屈が嫌いな自分が嫌いだ。そしてわたしの理屈はわたしのそのような嫌悪を論難する。そしてわたしはわたしの嫌悪よりもわたしの理屈を信用しがちだ。それはひとえに、わたしが理屈以外の根拠で何かをしたとき、かならず失敗してきたからだ。
もちろん、わたしは生来いいかげんで言行不一致だから、口にするほど思いつめたことなど一度もない。
わたしはわたしについて言及するととめどがないのはなぜだろうか。
わたしは、ノリが悪いだけではなく、徹底してノリというもので行動するのが嫌いだ。場の空気で何かを他者に強いるなんて最低だと信じている。だからむしろ、期待されていることを積極的にしない。単に意固地なのか? それもあるが、芝居が嫌いなのだ。嫌いというより下手なのだろう。意識的にあえてのってみるという計算のうそが耐えられない。というか、敢えてというスタンス一般が好きではない。
楽しい振りをしていれば自分でも楽しいような気になってくるなんて、悲惨な欺瞞だ。楽しくないのには、それだけの理由がある。その理由を見ない振りをしてなんになるというのか。
生は幸福のためにあるのではない。欲することをなし、愛するものを擁護し、悲惨を減らすために。すくなくともそういう建前のはずだ。
モラルは、同一化によって与えられるものではないだろう。決まったことだから、守るという習慣をどれだけつけたところで、それこそが道徳的退廃以外の何者でもない。社会的安定のための道徳という意味でなら、そのような道徳的退廃としての道徳的振る舞いでも十分かもしれないが、そのような社会は魅力的でありうるだろうか。
■ 後藤ラジオ
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黒くてよかった。
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