■ 映画
「普通じゃない」と「something wild」を見た。
いい映画だった。とりあえずメモのみ。感想はまたのちほど。
■ キーワード
しかし、おっちょこちょい、とか、あからさまに説明文を利用していやみを言うために言葉を登録するのはどうなんだ。単に定義としてみても狭すぎるし特殊すぎる。キーワードの私物化だろう。あと名詞じゃないという点でいえば、削除の動機などは削除に値するかどうかとは関係ない。事柄はあくまでもルールとそのキーワードの内容に則して判断されるべきものだろう。題名等についていえば、文字列としての同一性は言葉としての同一性じゃない。括弧でくくられていなくても、その題名のテキストが存在し、説明文がその題名のテキストについて記述しているなら、それは名詞であって、そうでない場合と混同の恐れはない。
いちおう、id:hatenadiaryにもリンクしておく。
■ 対象関係論
http://www2p.biglobe.ne.jp/~you_/index.html
なかなか充実したページを見つけた。まだよくしらない領域なのでうれしい。
でもやっぱり対象関係論は面白いです。あとあいかわらずラカンがわからないので勉強中。
想像的なものは表象であり不在ということがない、ということらしいので、それを英国学派の枠組みで考えていくとどのあたりになるのだろうか。
鏡像段階とのかかわりで、ビオン? だかの錯覚論を考える。
錯覚というのは自分の欲望がそのまま現実に満たされる、満たされた状況において、自他の区別が知覚されていない、隠蔽されている状態。魔術的身振りの段階、儀式の心性とは、この欲望の満足が、呼びかけとして意識されていないことが違う。魔術的身振りの心性では、欲望は、儀式的な身振りによって実現する。しかし錯覚においては、欲望することが満足することと同一視される。この場合、この快は現実のものである、現実の支えがあるという点で幻覚的満足とは区別される。したがって、錯覚は、欲望を読み取って、欲望と満足の間の遅延を表面化させないうちに満足させる主体を前提とする。幼児においては母親的養育者である。幻覚的満足においては、快の経験の表象が再現されることで現実の裏づけなしに実際に快が幻覚的に経験される。
錯覚の状況にあるとき、幼児は、自分の意識、欲望が、外界を直接左右する、外界と関係を持っている、と考えている。ある意味で、これは関係妄想の根といってもよいだろう。セカイ系もこういう心性と関係を持っている。くりかえすけれどもこれといちおう魔術的身振りの段階との差異はおさえておくべきだろう。魔術は操作であり働きかけであって、対象意識をもつ。
さて、鏡像段階をここで考える。二者関係においては、すべてがわたしか相手かに区別できるということは、いかなる場合でも相手の行為を、わたしの行為の結果として解釈可能だということだ。相手の行為をわたしの行為によって説明できないということは、三者関係になってはじめて可能である。説明できない、という意味での隙間は、二者関係では存在しない。
ラカンはたぶん、発達論的な語り方をしないからわかりにくいのだろうなあ。
■ 江戸川乱歩「怪人二十面相」「少年探偵団」
どうでもいいけど「少年探偵団」のほうでインド人はひどい扱いである。
がんばれインド人。「怪人二十面相」で南洋で行方不明になったままほったらかしのお兄さんも気になる。あと乱歩の疑問文による不安の盛り上げは面白いけどちょっと笑ってしまう。それから少年探偵団はどうも小林君に私淑していてじつは明智先生はどうでもいいっぽいので、小林君、油断できない。
あと子供のとき読んだときもおもったのだが、二十面相は華麗なことをするのにかなり準備や裏方は地道で泥臭い。そのへんを隠さないところが、なんというか素敵かもしれない。でもときどきかなり小物っぽいぞ。
関係ないが、BBCのホームズのドラマ(傑作!)を見て、私立探偵という言葉は、元来は個人刑事とか、私立警察とか、そういうニュアンスのかなり斬新というかてらった言葉だったのだ、ということ、世界初の顧問探偵とかホームズいばりすぎ。
やっぱアイリーネ・アドラーはいいよなあ。
■ はてな
「気に入らない」がキーワード登録されている。とりあえず、名詞ではない。
■ プリンセス・プラスティックの
チュチュさま、クドルチュデスのバーチャル・ネットアイドルのサイトが、作者本人のものであることに衝撃を受ける。でしでし。
■ はてなと村関係
id:nobodyさんとかid:sugioさんとか。とりあえず、近所にいるようでよかった。よかったというか、まあそうだろうなと。だからといって日記の内容をどうこうするわけでもないし。
こういう関心空間的つながりは、興味関心の方向の共通性なので、かならずしも、馴れ合い的なコミュニケーションを意味するわけではないと思う。というか、揶揄されてもひらきなおってユーモアにしてしまうあたりはなかなか健康的な感じがする。関係を意識化することは、そこに境界とか排他性が生まれない限りはいいことだ。問題なのは、「仲間内」をつくりあげて、擬似的な主体として擬人化する語り口が発生してしまうことで、警戒すべきことがあるとすればそういうことだとおもう。じっさい、べつに「我々」意識なんて微塵もないと思うし。身内意識を微塵ももたずに濃密な交流をすることは可能だし時には必要でもある。相手を予期してしまわないこと。他者を他者として成立させるということは、他者につねに不可解な部分を予期しつづけることだろう。
■ ビオン
http://www2p.biglobe.ne.jp/~you_/bion.html
の基底的想定集団での、ペア想定集団(このへん用語うろおぼえ)で、リーダーはいまだうまれざる何者か。問題の解決は生まれてくる子供によって解決されるだろう。、というのにしびれる。これはかれの理論とはずれる話だが、ディオティマ的な、こういう構えはやっぱいい感じだと思う。もちろん、ビオンはこれを集団が問題解決に対していだくファンタジーとそれに相関しての集団のリーダーの性格付けについて語ってるわけで、とくべつ肯定的な意味でいってるわけじゃないけれど、関係は産むためにあるというニーチェの洞察はやっぱかっこいいわけです。
Bion によればグループは、各メンバーの意図や意識を越えたグループ心性 group mentality を持つという。
ワーク・グループ (W)
理性的な協力のもとに何らかの課題が遂行されているグループ。フロイトが自我の特徴としたものに類似。
基底的想定グループ
基底的想定の生活は現実へとは向かわず、内側のファンタジーに向かう。基本的憶測は匿名的であり、グループの誰一人にも明確に規定されることはない。
基本憶測は、以下の3つにまとめられる。
依存想定グループ dependency (baD) (愛着)
「完全に依存できるリーダーが欲求や欲望を満たしてくれる」
「母親とその体と結びつき、相互的な反応を確保したいという分割排除されたニードの結果としての理想化。自分自身と内的対象を、投影された羨望と一つになった外的対象の報復から守る手段」
闘争-逃走想定グループ fight/flight (baF)(攻撃性)
「敵が存在し、その敵を攻撃しなければならず、またその敵から逃げる必要がある」 「生まれもった悪性の羨望という形で現れる、死の本能に特有の不安から生じる分割排除され投影された憎しみの結果としての中傷」(Hopper 1989)
リーダーはパラノイド。
つがい想定グループ pairing (baP) (性愛)
「グループの課題が何であれ、カップルの間に生まれる子どもによって解決されるだろう」
「抑鬱ポジションに関連した不安に対する躁的防衛としての性愛及び性愛化」(Hopper 1989)
グループのリーダーは、まだ生まれていない何事か、あるいは誰か。
原子価 Valency
個人が基本想定活動にどう程度容易に入り込めるかということを示す。(Greenberg 1977)
これってessaさんの問題意識と関係するんじゃないかなあ。
どう関係するかといわれると困るんだけど。
ちなみに即身仏についてはそういう過程として、生き方としての死に方の問題ならまったく文句はないのです。あくまでも、命を絶って来世で救われるという発想への違和感だったので。
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