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Drifting Antigone Frontline

2003/11/02 23:24 JST

論031016:ジャーナリズムにおけるウェブログ形式は何が急進的なのか? 07:03

http://www.kotonoha.or.tv/weblog/000142_radical.html

翻訳に感謝。

日本において日誌的ページの分類論ではなく、名前が何であれ、それで何かできるのかどうか、できるという言説には具体的に現実味があるのか、そういう議論がこれから必要だ、ということはあると思う。マーケティング的煽りではなく、ドラスティックな変化を期待するわけでもなく、地道に何らかの公共圏の構築ツールとしての有用性を探っていくこと、それはむしろ現状がそこからいかに遠いかを認識することからはじまるのだとおもう。もちろん、それは日誌的ページがすべてそういうものであるべきだという途方もない主張に結びつくべきなのではなくて、あらたに、そういうジャーナリスティックでもしかしたら政治的なニュアンスももったウェブ日記を存在させようとする試みが功を奏するか、それには意味があるか、そういう問いにつながっていくべきものなんじゃないかと思う。

もちろん、もはや付け加えるべきものなどない、あるいはそういう属性を日記に持たせることには有意義な価値などない、という立場もあっていい。しかしそれは「何であったか」という意味での分類論という枠組みよりも、「どうしたいのか」という、いったい日録的更新ページに何を期待するのか、という視角からなされるべきなのではないだろうか。

コミュニティと自由 07:17

ヴァーチャルコミュニティーの自己言及的リアリティ

http://ellington.gel.sfc.keio.ac.jp/nsly/mt/ns/000760.html

この辺も結構、実践的な問題として考えざるを得ないところ。個人的には降りる自由とか、解離の権利と、対話主義的アプローチはどう整合するのか、しないのか。コミュニケーションやシステムへの寄与の強制は、それが自由を擁護するためと称するものでも抑圧的でありうるだろう。しかしまた、なんらかのコミュニケーション空間なしには、たとえば独占禁止法のない資本主義みたいな自由が自己否定してしまう事態が起きる。むしろ、バフチンの内的対話のように、孤独や沈黙をコミュニケーションのひとつの形式として考えることだろうか。公的にコミュニケーションとして公認された形式を逃れる、あるいは無意識的な、非人称的なコミュニケーションの次元を考えること? 実際、議論しなければならない、社会に参加しなければならない、という言説はハーバーマス的な説教くささをまぬかれない、という感触はあるんだよなあ。ただ、非人称的なコミュニケーションの次元を考えたところで、それが直接、解離の権利とつながるわけではないわけで。それに、参与のはしごがまずはずされているという事態をどうにかするという問題も絡んでくるし。もうちょっとちゃんと考える必要あり。ただ、ここで出てきた「倫理の市場」がある、という指摘はぼくも面白いと思う。つまり、にちゃんろんと微妙につながるんだけど、議論を経ない多数の一致を重視する多数決主義というのはかなりある。(それはべつにオフラインでも同じだ)そこには議論を経ていないからこそ、その一致には根拠があるのだろう、という想定がある。このへんの問題とプレイヤーへの倫理的要求度がオークション的に高まるプロセスとはつなげて考えられないだろうか。

キーワード、自由主義 リバタリアニズム 共同体主義

キーワード 06:29

せっかく」の今日の時点での履歴。

ふるいやつが削除されると履歴が消失してしまうので記録。

* hoehoe02 (2003/11/01 13:37:14) change category to 削除予定キーワード

* lovelovedog (2003/11/01 06:21:43) append

* cider_kondo (2003/10/30 10:08:53) change category to 削除予定キーワード

* lovelovedog (2003/10/29 22:45:59) append

* yms-zun (2003/10/31 12:41:25) change category to 削除予定キーワード

* lovelovedog (2003/10/30 22:19:21) append

* maspro (2003/10/31 21:36:37) change category to 削除予定キーワード

* lovelovedog (2003/10/31 20:46:05) append

* lovelovedog (2003/11/02 03:25:56) edit

* jouno (2003/11/01 22:40:37) change category to 削除予定キーワード

* lovelovedog (2003/11/01 17:43:38) edit

* Yuichirou (2003/11/01 16:30:04) 2,5d1 16c12,15 change category to 削除予定キーワード

* lovelovedog (2003/11/01 13:57:29) append

なお、上から四つ目には以下のコメントがある。

# lovelovedog 『次に別の誰かが「削除キーワード」に回したら、削除に同意します』

ヘルプより。

キーワードに登録できるのは、「普通名詞」と「キーワードに適した固有名詞」、および「多くのユーザーにとって有益であるため固有名詞化されたキーワード」のみです。それ以外のキーワードは登録しないでください。また、1文字のキーワードを作ることはできません。

http://d.hatena.ne.jp/help

トウトツデスガ 03:49

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/4111/makino1.html

牧野信一は重要な作家ですよ。

神のジェンダーに関する一考察 ――フェミニスト神学との対論を通じて 01:55

http://theology.doshisha.ac.jp:8008/kkohara/works.nsf/0/708abac7b046fb364925663a00301ccc?OpenDocument

たいへん、面白いです。ちなみに、イエスが「父よ」と神に呼びかけるとき、これはこのアッバという言葉が父というのではなくもっと親密な語であることから「父さん」とか極端に言えば「パパ」といっていると理解したほうがいい。このへん、イエスをある種の「白痴」としてとらえるニーチェなんかとの関係でも面白そうなところ。

一卵性双生児 びんのなかのてがみ 01:35

http://d.hatena.ne.jp/s-saitou/20031101

考えていたのは小説なのでかならずしも科学的に正しい必要はないのだけれど、この指摘は面白かった。世界の神話の多くは神話的な最初の兄妹の結婚によって人類が誕生すると伝えている。また、現代科学でも、ともすればミトコンドリア・イブの探索がジャーナリスティックに話題になったり、人類の最初の母は何人だったかというようなあからさまに不毛な話題が擬似科学の話題になったりする。

こうしたことの根にある神話的思考というのは、ツリーの思考、種族とは枝分かれして生じるものであり、その枝分かれのひとつは特権的な枝でそれが正統=血統であるという思考だろう。もちろん、冷静に考えれば、多様性を枝分かれによってモデル化するのは、父系性という特定の制度と密接に関係した特殊なモデルに過ぎない。

もちろん、原初が一者であったと仮定することから、必然的に人類の始祖を最初の近親婚によって基礎づけざるを得なくなるのだけれど、原初が一であったと仮定する必然性はどこにもない。進化論は、特定の血統の変化に関する描写ではなく、複数の血統が属するグループである遺伝子プールでの分布と強度の変化として考えるべきものだ。(というか血統という概念がツリー的なのだ)原初はつねにすでに多である。

それはそれとして、その内部だけで婚姻してもひとつの種として成り立つ最低限の個体規模ってどのくらいなんだろう。数家族で十分なのかな。

もっとも神話的思考もあなどれなくて、ことなる血を巨人なり天使なり動物なりの血の混入として表象したりするわけだけど、ただ、そういう場合、そういうのはやはり「外」からのものとしてイメージされ禁忌=有徴化されるわけで、本来的に本質がはらむ内在的な複数性、揺らぎと多様性としてはイメージし得ない。

面白いのは、どれだけ知られているかわからないのだけど、遺伝子の大半は使用されていないし、そもそもどういう形質につながるのかもよくわからないものだということで、つまり、わたしはわたしのもつ遺伝子のストックだけでも、ひとならざるものを組み立てるためのセットももっているということだろう。もちろん、それが正常な生殖プロセスで発現するかというとそんなことはないのだけど、個体のもつゲノムそのものがゆらぎをはらんだ遺伝子プールとしての側面を持っているということは重要だと思う。