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Drifting Antigone Frontline

儀礼的無関心について blogと編集会議

2003/12/05 23:07 JST

■ 儀礼的無関心について 18:45

(追記。やや考え直した。のざきさんのテキストを読んだことが大きい。リンクの仕方が失礼な場合もリンクされたことへの反応が失礼な場合もあるだろうということは、リンクしたほうかされたほうかというのは事の核心には関係ない、という気がしてきた。また、失礼かどうかというのは個別のケースで議論すべきことで一般論にするのがおかしい。それになにより、心無いリンクは止めようと「提言すること」自体は、すでにマナーではなく規制の領域に明確に入っている。儀礼は運動のようにして提言されるようなものではないだろう。マナーはリンクするほうが内心で検討することで、リンクされたほうが相手に向かっていうようなことではない。他者に向かって議論する論拠として使うことを想定している時点ですでにそれは政治的な論理なのであり、権利や禁止の問題である。それに、やはりこれはもとの下の文章でも大きいのだが、例え話を使って、心情への配慮を訴えるという論法は、権利を主張するハードルを不法に迂回して意を通そうという匂いを感じてしまう。「配慮されていい心情」としてでなく、権利として論じ、そういう論じ方に相応の反論の圧力を引き受ける必要があるはずだと思う。したがってそうした見解を前提にしたうえで、下の文章は、ある権利を主張するときにマナーや心情という場を迂回することで抵抗を軽減しようという論理への批判として残す。想定していない言説の場やアクセスの量にリンクしてしまうことは、わたしは肯定すべきだと思う。もしそういう用意のない人がそういう状況にいたってしまったとしたら、問題が生じたのは、リンクされた時点ではなく、リンクされうるところにそのテキストをおいた時点だろう。)

 マナーとルールの領域が混乱しているのが問題なんじゃないかと思う。マナーとして、やたらなリンクがよくないことは誰でも同意できるだろうし、リンク自由に対して何らかの抑止力がほしいというのもわかる。しかし、それはあくまでもマナーの領域にとどまるべきだ。では、マナーとしてしてはいけないというのと、権利として、ルールとしてしていい、いけないというのはどう違うのか。ここが判然としていないかぎり、マナーの名でルールが密輸されてしまう。

簡単にいえば、マナーは強制力を持ってはいけない。強制力を持った論拠として使えるならば、それはもはやマナーではなく権利ないしルールの次元に入り込んでいる。では、マナーは日本語で言う建前なのか。そうではない。この分割は建前本音の分割とは違う。マナーはそれなりに実効的な抑止力ではあるべきだ。

つまり、マナーはペナルティとして「評判が悪くなる」だけしかない、そういうもののことだ。マナーは、評判が悪くなることをいとわない人間には無力であり、また、そこに踏みとどまらねばならない。だから、「あなたのリンクの仕方は失礼だ、不躾だ、野蛮だ、敵対的だ」というところまでは言う「権利」が誰にもあるし、そのことにコミュニティが同意して、そのひとの評判が悪くなって不利益をこうむる、ということは或る程度はあっていい。しかし、「あなたのリンクはマナー違反だからリンクすべきではない」というのは、マナーの領域では言いすぎであり、越権だ。(ただしもちろん、ひとは越権な発言をする権利がつねにある。)(この二つは、物理的強制権をもたない状況ではどちらにせよ同じではないか、というかもしれないが、禁止事項であると社会的に公認されることと、悪い、というか無作法な行為であると社会的に公認されることでは、実質的にさまざまな違いを効果として持つことは明らかだと思う。そしてこの違いは程度の差ではなく、やはり質的違いである。)

それを行う権利が保証されるべきであるがまた多くの場合には社会的に肯定的に評価されるわけではない、という領域がきちんと認識されることはわたしは必要なのだと思う。そうでなければ、私たちは倫理によって法的に規制されることになってしまうだろう。たとえその「法」が私的なコミュニティのものであるとしても。

ところで、これはもう違う話なのだが、携帯電話以降、どうも世の中、独り言をいうやつばかりで気味が悪い。もちろん、実際は独り言ではないのだが、目の前にいるやつをないがしろにする度合いが高まっているのにはどうしてもなれることができない。わたしは神経質なほうなのか、目の前にいる人間を、「いないこととして」振舞うのは苦手だ。耳に入った言葉はその気がなくてもどうしたって聞いてしまうし、虚空に向かって語りかけている人からはできるだけ遠ざかりたい。だからむしろ、携帯を使うための電話ボックスがあればいいのにと思っている。また、グループで話している人々はすぐ近くでも無関係な人にどうその声が聞こえているかまったく関心を払わない。具体的な物質的な場というものに、仮想的な場が優越する。隠喩的関係が隣接に優越する。しかし、隣接関係こそ生存の住まう場所ではないか。勿論、込み合った都市では群衆の中の人として無関心は必須の技法なのだが、なればこそ無関心を装いつつ関心を払うことが摩擦の回避のためには本来必要なはずなのである。

■ blogと編集会議 19:04

プリントメディアは過程ではなく成果を発表し、記録するものだった。ここには手書きと活字の対立が存在する。(雑誌、新聞はいちおう棚上げ)最近のウェブ・コンテンツにたいする批判のうち、いくばくかは、ネット上のテキストを目して活字媒体のアナロジーでみるという誤解から生じている。しかし、記録メディアである活字とことなり、電子テキストは記録的側面よりも通信的側面がつよいことは思い出していい。作業フローとして、或る程度作業したら、節目節目で、あとから参照し、それまでの作業がゼロにならないように「冒険の書」にセーブする、そういうストックとして、活字メディアの「刊行」は存在した。しかし、 blogにかぎらず、日記的コンテンツを利用して思考や感情をある程度共有することで、生産的な結果を導こうという流れの背景にあるモデルは、活字ではなく手書きのほうであって、ストックではなく、フローのほうである。

blogなり類似の日記的なコンテンツの記事が、活字メディアのストック的な機能を僭称していて、あるいはそういう側面においてあやまって評価されている、というなら、活字メディアにストック的な機能、成果の記録、蓄積としての機能においてそれらのblog的コンテンツは劣っているという批判は正当だろう。しかし、日記的なフローの更新を発表することで、スクラッチ段階からリアクションを期待するという行為の有意義さとは、いわば編集会議の強化、日常化、誰もが常にいるわけではないが、誰かが常にいる会議室なのであって、編集会議は活字のかわりにはなれないが、活字もまた編集会議の代わりにはなれないのだ。その意味で、或る程度までは、オープンソースとの類比は正当なのだとおもう。

逆にいえば、そうした批判にこたえるには、つねに節目ごとにストックとして成果を文書化する、作品化する、そういう営為を示すことで足りるのではないだろうか。

もちろん、日記がそうした共同的作業の媒体としての側面を持たねばならないわけではなくて、その可能性のひとつに過ぎないことはバランスのために認識しておくべきだろう。また、その面から、日記的なテキストの一面だけの不足への批判に答えることもできるのではないか。

追記。いや、もしかしたら、真の問題は締め切りがないという状況で書くということのなかにあるのかもしれない。締め切りのない状況で、どうやって文章に緊張感を与えるか、というような。一応、覚えとして追記。