とりあえずリハビリ的に
冬がきて、くには派兵を決め、ヒロスエはできちゃった結婚をするという。
なおどこかで話題になっていた国際連合は連合国と訳すのが本当だというような話題は、かなりまえからよくある話らしく、検索してみると、Common Sense: 国際連合、3つの幻想というような記事が見つかって、官僚による仕事らしいという説が出ていた。議事録をみると昭和二十一年にすでに国際連合って呼んでるのでかなりはやい時期のことなんだろうなと。で、みつけたメールマガジンのいう「幻想」というのはだいたいにおいてそうだと思うんだけど、だから国連には幻想を持たず白眼視してるのがいいんだ、国連みたいな機関はだいいちあんまり必要がないんだ、というのではなくて、国連は深刻な機構改革の必要性を抱えているから変更すべきだという方向に行くべきなんじゃないだろうか。少なくとも、国連を引き立てていくよりも別の何かをつくるほうがいいというほど国連が駄目だということを説得的に論証することなく国連はだめだということだけ言っても駄目だと思う。今国連が果たしている役割は誰が担うのかということが無しになってしまうからだ。そういうことを踏まえた上で、言葉の操作で現実の矛盾を覆い隠すような真似は当然、批判されるべきだけど。(ちなみにリンクはほとんどgoogleで適当に出てきたものなので別に同種のもののうち代表的なものというわけではないです。)
あまり関係はないけど自給自足というのは胡散臭い理想であると思う。自給自足という理念はたいてい、交通のチャンネルを見えなくすることで、自給自足であるように思い込む、という身振りに帰結するのではないか。真に自給自足可能なものなんてどれくらいあるというのだろうか。そして俗流の自由主義、個人主義というのはそういう意味での自給自足という理念と野合しているところがあると思う。リンクの自由の話とつながったりもするけど、自分の行為の原因も結果もどちらも予想外に遠くまで関係を持っている、ということ。そうはいっても個人は全体とか組織とか、「上位の共同体」があってのものだということではまるでないのであって、横の複数の他者たちあってのものだという話なわけで。でもやっぱり難しいのは、行為の因果の連鎖にはっきりとした切れ目はないわけだから、たとえばよいことをしようとしても、そのよいことが原因でわるいことがおきるかもしれない。だから、意図や結果で行為の意味を測ろうとするとどうしたって破綻する。じゃあ、どうしたら、っていうとこたえは見つからないのだけれど。