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Drifting Antigone Frontline

コミュニティの担い手になるということとそれへの反発

2003/12/14 23:16 JST

タイトルとは関係なく、とりあえずクリップ。

Irregular Expression: テレビ朝日、反米デモ捏造で2万人虐殺幇助
はてなダイアリー - kom’s log(03-12-12)

テキストをテキストの次元だけで、つまり解釈の次元だけで批判すると何が間違っているかはいえても何が正しいかはいえない。しかしテキストは暗黙のうちに何が正しいかというメッセージを不可避的に送ってしまうものだから、結果、間違っているものの正反対を、ただ間違っているものの対極だからという理由で正しいと述べてしまうが、間違いの正反対もまた間違いであることは多い。その意味で、ジャーナリズム批判のリテラシーは必要なことだろうとは思うけれども、リテラシーでどうこうできる(つまり解釈能力によってわかる)ことには限界があるのだから、リテラシーのない人にはなになには読めませんね、というような言説は片手落ちだ。もしこのような状況で救いがあるとすれば、一次情報がメディアと別の経路で手に入る可能性がいまや存在しているということで、そのような意味で、インターネット、日記、ウェブログにはやはりいくばくかの有意義さはあるのだと思う。

追記。
反米デモ?反テロデモ?反占領デモ?
このような批判がその後あった。kom’s logのほうの記事にも批判されるべき点があった、という指摘。

公共言説空間の構造の問題(続き)

その他関連の話題など。非常に重要な議論だと思う。それはたとえばはてなダイアリーなんかで公共的な、あるいは公共的なものを標榜した行動をとると覿面に反発を受けるのと似ている。たしかに小役人めいて権威をかさに着ることは陋劣だが、公共的な行為を、「お上」や「システム」ではなく自分たちが担うということがなければ、公的なものを自分たちでコントロールし、機能させるということはできないだろう。ほかの誰かが権力を不当に握るのを批判し、警戒することで足のひっぱりあいをするかぎり、システムなり権力なりは、被支配者にコントロールされる恐れもないし、対抗的な権力、権威の発生を心配する必要もない。要するに、社会契約論が欠けているのだ、とぼくはおもう。ボトムアップで権力を創設するという行為なしに、トップダウンの権力に対抗することも、それを本当の意味で批判することもできない。個人主義的、自由主義的な、江戸時代の町人のようなスタンスからは、いかなる権力、拘束にも同意することを拒否するという姿勢しか出てこないだろう。しかしこうした、個人的な効用、権益を最大化しようとするゲームの戦略、ナイーブな権力批判によって、人々は個人へと分断され、各個撃破的に、中間段階抜きに、公的な体制に把握されてしまう。自由たらんと欲して自由を保障するための連携を流産させてしまうのだ。そのような個人と体制が中間抜きでむすびつけられているようなシステムにおいては、個人は、自由であると自己認識しながら、体制の行為の純粋な消費者=受け手であるにとどまるほかはないのである。ゲーム理論において、相手の裏切りを警戒する個人主義的にもっとも合理的な裏切り戦略においては、両者が協調した場合にのみ得られる利得を得ることは絶対にできない。リベラリズムとはおそらくそのような意味で、相手がかなりの確率で裏切ることを見越した上で、相手が仮に協調してきた場合にのみ得られるもののために協調に賭ける、というスタンスのことではないか。権力、あるいは対抗権力を創設する行為は確かにつねに同格の誰かが自分を裏切ってその権力を自己の利益のために使用する可能性を含意する。しかし、そのような恐れによって権力一般を拒絶しているかぎり、すでに存在する権力のなすがままであるほかはない。