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Drifting Antigone Frontline

2004/01/04 03:29 JST

■ memo Снегурочка snegurochka 06:48

http://artifact-jp.com/mt/archives/200401/thumbnailtrackback.html

google:スネグローチカ
■ vermilion@鴎外 20:12

http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/3336.html

鴎外漁史のけっこう好きな文章。(ただしわたしはこの文章の主張というより鴉と死骸と塔の不穏の取り合わせに引かれたようである)背景には大逆事件があるけれども、そういうことを抜きにしてvermilionの文脈で読んでもかまわないと思う。
■ はてなツールバー 15:52

http://d.hatena.ne.jp/ryuzi_kambe/20040103#p1

firebirdつかいのみなさま、着々と開発が進行しているようです。(この部分、以下に追記があります。こちらは開発進行中なので、IE用の機能にこだわらず、便利な機能のアイディア、要望があればフィードバックしていただけると思いますし、スキルのある方は自分で改造もできると思います。)IE使いの方もこれを機にぜひfirebirdに乗り換えてはいかがでしょうか。

追記。いろいろと難しい部分があるようなのでしばらくは期待しつつ待つ感じで。

http://d.hatena.ne.jp/ryuzi_kambe/20040103#p11

あるていど完成に近づいたら、今後の処遇について考えないといけないと思っています、はてなダイアリーToolsと違って、はてなツールバーは割とはてなが公式にリリースしている感じなので、その亜流ツールをつくった場合に、あんまり堂々と公開できないかなぁ・・・と。id:hatenadiaryに質問してみるのもいいかもしれません。

また、こちらの日記

http://d.hatena.ne.jp/jouno/20040104#1073199156

に、「要望があればフィードバックしていただけると思いますし」と書かれていますが、少なくとも最初のバージョンだけは、出来る限りオリジナルに近づけて問題を簡単にした方が、公式サイドに相談した際にも判断がより簡単になるのではないかと思います。

公開の方法とか、ライセンスとか、ほかにも難しそうな問題がいくつかありますが、これをMozilla用ツールバー作成の一つのケースとしてよい方向で解決できればと思っています。

いずれにしろ、ほぼ納得のいただけるところまで完成できたら、作成した人自身(ここでは自分)で交渉するのが一番いいと思いますので、それまでほかの方が間に入って交渉したりするようなややこしいことにならなければいいと思っています。

だそうです。
■ 人間らしさ 18:34

たとえばのざきさんのいう人間らしさ、人間は、坂口安吾やドストエフスキーが人間というときの人間であって、ハイデッガーやフーコーの人間主義批判の文脈での近代主義的な理念としての人間とは違って、可塑性と矛盾性をもったものとして、人間主義的なあらかじめの規定への背反をはらまざるを得ないものとしての人間をさしているだろう。正義はそれが引き受けられるかぎりで、自分にとっては絶対的であるほかない。というか、正義に絶対も相対もないのであって、ただ、正義として現前する。そこで、その正義とどう向き合うかが実存的な意味での倫理的問題を構成するのであって、もし相対的正義としてしかその正義を認識していないなら、それはそのひとにとってそれは単に正義として認識されてないだけだ。これは信仰と似ている。なかば信じることはできない。なかば信じているのなら、それは単に信じていないのだ。この意味での絶対性は、正義に人が呪縛されることを意味するものではない。正義であることを信じながら、それをなすことにさからうことが「よいことだ」と感じることがありうるのであり、(フィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」の有名なせりふ「時には間違ったことをするほうがいい場合もある」)また、不意にある正義が自分にとって正義ではなくなることもありうる。そのかぎりで、また、この世の事物の「相互関係」にかかわるかぎり、その適用において正義は相対的であるほかはない。この二面はべつに矛盾しているわけではなくて層を異にしてひとつの事柄を構成している。絶対的正義なんてないというのが、不動の正義なんてないという意味ならまったくそのとおりだが、そうであるからといって、正義が、それを内面化して引き受けている個にとって絶対的でなくなるわけではない。自分にとって定言命法的な強制力と権威をもたないものであるなら、それは相対的な正義なのではなく、単に正義ではないのだ。日本的な「建前」である。では正義の実存的な意味での絶対性を否定することで、要するに実際には正義一般を否定しているひとが正義抜きでいられるかというと、そうではない。何かを積極的に語ること、普遍的なものとして提示すること、何かを理由を持って選ぶことは、すでにしてそうすることをただしいとみなす観念ぬきにはいられない。そうでないなら動物のごとくただ選んだということになるだろうが、人間の場合は、その場合でも、動物のごとくただ選ぶことが正しいという観念が介在せずにはおかないだろう。とりわけ、たとえば功利主義はまさしくドグマチックな正義の観念の実例といっていい。だから、正義の絶対性を認識することは、自分は正義の観念抜きにすましているという態度から自己のその正義に対して無自覚になることへの衛生学なのである。対話的に他者へと思想を開くということが、何事も半端にしか信じないということであるなら悲惨なことではないか。他者の思想へと対話的にみずからをひらくということは、むしろみずからの信条をぎりぎりまでとぎすまして内破するまでその可能性に賭けるということではないのか。そしてそのためにこそ、その信条がまさしく正当な批判によってほころびるときそれをびほうしてはならないのだ。