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Drifting Antigone Frontline

2004/01/06 03:32 JST

■ 人間とか 22:38

http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.html

id:Tskk id:NaokiTakahashi

この論争に関しては明らかにのざきさんに理がある。というか、論争の内実以前に、たかはしさんやTskkさんはきちんと相手の言葉を理解しようとしていない。少なくとも、のざきさんの「人間」が、(ハイデッガー、フーコーの批判した意味での)ヒューマニズム的な理念でないことは明らかだし、道徳と正義の区別も現代の論壇で一般的でないだけであって、説明を聞けば誤解しようのないものだし、論壇的な用語でも柄谷行人の倫理と道徳の区別が相応するものだろう。(面白いことに柄谷の語法では倫理にあたるものが他方では道徳であり、道徳にあたるものがかれでは正義と呼ばれている。要は類的な規範と主体の個的関係の問題である)また、しつこくメタレベルに話をずらそうとして、その意図なり背景なりを問題にして、論理そのものを相手にしようとしないところも論理に対して不誠実だ。西欧の構造主義以後の思想の相対主義を日本的に皮相な形で受け売りすることは、相対主義をドグマ化する愚に陥るしかない。この手の議論で「わたしはあなたを評価していない」という意味のことをいう必要がどこにあるのか、その点で怒っているのは正当だ。「アウシュビッツ以後に書くことは」云々的な意味でヒューマニズム理念が破綻したという文脈、あるいは主体を解体した構造主義以後の人間概念の変遷は、にもかかわらず、倫理的主体としての人間にとって「主体」の概念は廃棄不可能であるということと両立するものであるに決まっている。自分が機械仕掛けの電気的仕組みである脳に過ぎないという認識をもって、そこに物理学的意味での自由などなく、すべてはあらかじめ因果律によって決定されていると悟ったからといって、それで人間が倫理的選択を主体として成すことから免除されるわけもない。人間を一面的に書くべきでないということを、一面的な人間を書くべきでないといったかのように翻訳するのは不当な操作で、一面的な人間を多面的に書くべきであるということにすぎない。

http://d.hatena.ne.jp/jouno/20040104#1073208865

追記。

倫理における規範と主体的選択の亀裂の問題は柄谷の議論はカントに由来するらしい。おそらく、福田恆存の区別もカント的議論に淵源を持っているんだろうとおもう。フーコーの同種の問題意識としてはこちらを参照。ただし、フーコーやアレントはこうした領域も普通の意味での「政治」とはことなるものとしてではあるが、ある種の政治の問題としてとらえているようである。

http://www.scfj21.com/mt/archives/000012.html