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Drifting Antigone Frontline

2004/01/08 03:33 JST

■ 人間とか 続き 18:51

http://flurry.hp.infoseek.co.jp/diary.html

http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/

多少追記。

(この文脈での)「人間らしさ」が(ポリティカル・コレクトネス的な意味での)政治的価値だなんて曲解もはなはだしいと思う。ここでの人間らしさという言葉はあくまでも作品のなかの人物の振る舞いの説得力を事後に言い表す言葉なのであり、作品の力が事後に、読み手の人間への固定イメージを刷新したかということが問われている。この文脈で、人間性という言葉が、作品を判断基準として事前に想定される何らかの内容をもったイメージや理念のことではないということくらいは、きちんと読めば誰でも理解できるはずである。作品は、人間性というものへのイメージをその作品自体の力によって発見する。それまで人間性とみなされなかったものを人間性として説得力を与え、固定イメージを揺るがし、そうすることで、物語にリアリティを力を帯びさせる。人間らしいというこの文脈での言葉はそういう事態をさしているのであって、ここまで人間性をなにか事前に想定してかかってそれに合致しているかどうかで作品を判断する態度を意味しているかのような理解に固執するのはどう考えても事実に反しているし不毛である。(ただしこうしたテーマ系はあくまでもリアリズム的な土台の上での話であることは一応理解しておくほうがいいだろう。)

誤読の自由というテーゼは、その他の安直な相対主義もふくめて、ポストモダニズムの哲学のいってみれば「ニューアカ的」な通俗的流用の典型であって、むしろどれだけそうした態度が批判されるべき意味で形而上学であるかは少しでも考えてみればわかるはずのことなのである。誤読の自由というのが素朴な意味でいかようにもそれが面白い解釈であればどう解釈してもかまわないし、それらの諸解釈は同等であるという意味であれば、そのようなことをたとえばバルトであれだれであれ、いつ主張したというのか。もしそのような意味で誤読の自由ということがいわれるのであれば、それはまず、テキストの個別性の蹂躙である。解釈の主権が読者に移動したというだけのことであれば、所詮、テキストの意味は、作者の専制から、解釈者のモノローグ的な専制へところを変えたに過ぎない。読みはテキストの具体的な意味作用、場としての個別性に徹底して則すこと、その意味で解釈者の恣意からあたうかぎり離れることをその条件にしなくてはならないにきまっている。テキストの読みは「自由」ではない。テキストの意味は事前に作者の意図によって決定されているものではないが、もちろん、読者の自由な読みによって好きに左右できるものでもない。そこには一定の客観性、外部性が存在するのである。それはテキストがひとつの社会的な意味の場として、固有の力学的な緊張をはらんだ場として存在するからであり、読み手はそのようなある固有の「関係」に関係する。読みは自由なのではなく、たしかに戯れではあるが、いってみれば勝負のようなもので、いずれにせよ作者と同様、読者も主権者ではない。作者ではなく、テキストが何を語っているか、ということは、ある程度、幅と揺らぎを持ちつつも限定されている。もはやそのテキストについて語っているとはいえなくなるという意味で、「ただしい解釈」はなくても「ありえない解釈」はある。もちろん、何がありえない解釈かということは、テキストと社会的な意味作用の場との関係にも依存するのであるから、理論的、言説的介入によって、ある解釈をそのテキストの場にはらませることは可能だが、それは、単にそういう解釈も可能だと宣言することによってではなく、テキストが巻き込まれている意味作用の場を、言説そのものによって実践的に変容させることによってのみ達成できることなのである。その意味でも、読みの自由というテーゼは誤解されてきたといっていいだろう。

なお、現代性を振りかざすことで何かを批判したようなつもりになるのは、少しも新しくない、いかにも日本的で伝統的な振る舞いです。

同様に、理性だとか、近代的主体だとか、啓蒙だとか、形而上学だとか、そういうものの批判は、あくまでもそういうものである必要はない、そういうものであることがよいことだというのは思い込みである、本質的にそういうものである、というわけではないとか、そういう理念、強迫観念に対する批判なのであって、そういうものを安直に廃棄してなかったことにする、そういうことがめざされてきたわけでも、あたかも現象的にそういうものがなし崩しになっているかのようである現代の風俗を無批判に肯定するためのものでもない。ひとは本質的に主体なわけではないし、主体であることがよいことなわけではないし、つねに主体であろうとつとめる必要はない、けれども、主体という人間の語りと振る舞いのモードは、廃棄不可能(単純にいえば約束する、責任をとる、立候補する、そういう行為をするということは主体というモードで振舞うということだ)だし、それを適切な位置に格下げして再考すること、その過剰なオーラを取り去ってあらたに関係付けることこそが必要なのである。サイボーグ的であるとは「主体」もまたひとつの仮面としてモジュールとしてしかも内的にみずからの一部でもあるものとして肯定すること、それに呪縛されることなくそれとともにいきることではないか。そうでなくては、所詮、ジェンダー・ポリティクスだって不可能だし(抵抗の主体)、相対主義はまっすぐに順応主義にかわるだろう。どれでもいいなら、これでもいいわけだ。そしてまちがいなく、「本当はこれである必要はないんだけど」と言い訳しつつ、つねにシニシズムは目前の、既成の「これ」を選び続けるのである。
■ この項、批判として適切かどうか微妙なので撤回。 20:45

ちなみに主題、意味とレトリックが分離可能だとか、文法的言語学的形式性が芸術性だなんて、ロシア・フォルマリストでも後期にはいわなくなった認識だということは指摘しておく。とりわけ散文において、意味の社会的場による「汚染」を排除して作品の芸術性のみを確定することなど、できるはずもない。それは作品を政治的基準で、社会的ただしさで裁くということなのではなくて、そういう意味を作品が帯びているということも、作品の芸術性を理解する関数のひとつの変数として不可欠だということである。作者の意図も、その政治的効果や意味作用、社会的な意味作用も、テキストの不可欠な一部である。テキストの芸術性はそういうものもふくんだ諸要素の関係性によってきまるのであって、そういうものが、テキストの芸術性とイコールで考えられた過去の批評が批判されたからといって、そういうものを排除して「純粋な」芸術性を構想しようというのは、およそ形而上学的な空想でしかない。