back_to_index

Drifting Antigone Frontline

2004/01/17 03:38 JST

■ 相対主義 00:12

http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/FN/relativism.html

最近、俗流のポストモダン的相対主義を批判するには、断固としてモダニズムでいくのもいいんだろうけど、ニーチェ的観点が有効かもしれないと思う。(それにしてもあたらしい思潮が前代の思想の内在的克服、上位互換になることを要求されず、「もうそんな時代じゃない」になってしまうのは、実に駄目なところだと思う。)通俗リベラルの抱く相対主義とは、ニーチェ的に言えば不能の表現なのだ。自らの暗黙に前提しているモラルに対して無防備な人間ほど、モラルを言揚げすることを嫌い、モラル一般を否定する。まさにそれこそが、制度としてのモラルの抑圧的機能なのだ。自然化され、モラルではないような「自然な成り行き」として提示されるものこそ、まさしく支配するモラルのなのである。そしてそれこそが現代思想の明らかにした知見であったはずであるにもかかわらず、きわめてしばしば、その現代思想の名において、そうした通俗相対主義が主張される。八方美人であることは不能の告白であるにすぎないということに気がつかない人が多すぎる。

というか、相対化する俯瞰の、「訳知り」な視線こそがまさしくニーチェ的批判の対象だったはずなのである。目的についての内省のない戦略論は、きわめて道徳的なものである。だが、そのことは隠蔽され、逆に目的についての内省を封じるものとして機能する。実際的な話もなにも、達成すべき目的が設定されなければ戦略論を語ることはできない。そして達成すべき目的は暗黙の前提とされていて、それについての内省することは空理空論とみなされ、技術的戦略論に議論が限定されてしまう場にひとがいるとしたら、その場とは、徹底的に道徳的な磁場であるというべきなのである。むしろ、それこそが、十九世紀的な意味での狭い技術的合理性なのだ。