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Drifting Antigone Frontline

論理と相対主義に関するクリップ

2004/01/22 21:43 JST

http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.html

http://www.geocities.com/Athens/Acropolis/1813/truth07.html

http://d.hatena.ne.jp/Tskk/20040122#p1

http://www.gpc.pref.gifu.jp/infomag/gifu/100/2-adachi.html

http://www.cyborg.ne.jp/~kyodo001/kiji/tetsugaku5.html

論理は他者と主張を関係させる際の必要条件だと思う。論理的ではない主張をした場合、相手が同意しても、不同意でも、それは、どちらの場合でも、広い意味での「イメージ」による他者の支配に帰結する。(あるいはそれほど権力性が強くない場合でも「共感」でしかない)そしてその同意した場合でも、両者は、イメージを共有しているだけで、現実的な、対象的な何かを共有しているわけではない。また、論理は、自制のシステムだと思う。ひとは、論理によらなくては、他者の指摘から自己の主張を反省することなどできない。結論が決まっている主張で論理を道具的に使用する場合、その弊害は当然、認識されるべきだけども、それは論理の一面でしかない。理性の道具的使用と内省的使用とは区別すべきだと思う。

また、議論には説得のための議論と思考・探求のための議論があり、前者を指して、「政治的」議論と呼んでもいい。対話とは、本当は何が正しいのか、共同で探求するための行為であり、一方が他方を説得するために議論以前にすでに形成されている主張を押し付けあうためのものである必要はない。ソフィスト的議論は、この意味での「政治的」側面しかみていないように思う。二つの異質な主張が対話することで両者の意見が革新され、違いは違いのままによりましなものになる、そういうものが生産的なもので、権力的な、自己の主張を通すことを目的とする、あるいは観客に印象付けるための、「説得のための」議論は、たしかに政治的に必要になることはあるけれども、そのような議論だけを対話のモデルとして考えるのは不適切ではないだろうか。

追記。
はてなダイアリー - NaokiTakahashiの日記

主張するということは広い意味で何かを押し付けるという側面ぬきではいられません。ですから、論理の権力性をわたしは否定するつもりはありません。わたしは主張することの権力性は不可避であるという前提に立って、論理による強制が、共感やイメージによる強制よりも、ましである、具体的にいえば、主張される側にとって自由度がたかい、ということを主張しているわけです。論理を媒介にすることによって、拒否ではなく、反論可能性を確保できる。

イメージや感情に訴えたり、共感に訴えたり、道徳規範に訴える強制は、反論可能性を持ちません。拒否するかうけいれるかの二者択一しかない。また、訴えるレベルが、身体的、無意識的レベルであるため、考えることによってその当否を検討することもできない。共感するかどうか、というのは、内省以前に、決定されていて、決して自由な決断ではありません。形式的なものこそが自由を保障するというのは、形式的なものは、その形式に当てはまりさえすれば、他の具体的内容は、まかされているからです。

論理が、対象的な、個人的なものにとどまらない共有されうる何かであるのは、それが形式だからです。反省できない、というのは、反省する原因、動機にならないという意味ではありません。反省する理由、根拠にならない、という意味です。ひとはどんな原因でも当然自己の主張を反省することはありえます。そういうことではなくて、相手の指摘を有効に取り入れる形で内省する、そういう形で、他者の思考と「関係する」ことが、論理を媒介にしなければできない、ということです。論理というのは、そのひとが何を主張しているのかを同定する方法なのです。

つまりほかの主張ではなくまさにこの主張によって、という形で、相手の主張の固有性を同定し、それへの対決、反応として、自己の主張を再検討する、ということは、論理を媒介にしなければできない、なぜなら、その主張を特定する固有の形式とは、論理によってしか定義されえないからです。そしてそういう関係性がつねに機能するとはかぎらないのは当然ですが、だからといって論理以外を媒介にすることによってそうした関係性が築けるかというと否です。もちろん、これは論理のみで十分という意味ではありません。むしろつねに論理だけでは不十分です。しかし、論理抜きでは決してなしえないのです。

ひらたくいうと、で、何が言いたいのか、あんたの説をはっきりさせろ、ほかと区別してきちんと定義しろ、というとき、そうするための手段は、論理しかないでしょう。そこで論理が矛盾していると、「で、どっちなんだよ」ということに当然なる。イメージや共感に訴えることで、相手を説き伏せることはできても、論理に訴えていないのであれば、両者が同意しているものは具体的には何ですか。それはあいまいなイメージか、主張の個別性をぬきにしたきわめて一般的なスローガン的な目標でしかないでしょう。それならば、そのとき、達成されたことは、けっして両者の主張の間のコミュニケーションではない。

何が正しいかは政治的関係性によって決まるものでしかないというテーゼは一面しか正しくありません。それならば、なぜ自然科学を特別扱いするんですか。社会的合意によって恣意的に真理が決定されるというのは、極端な観念論です。主観や共同主観から独立した対象世界は存在します。そして、対象世界、外的世界には、あてはまる観念とあてはまらない観念が存在します。問題は、外的、対象的世界に、あてはまる「唯一の」観念は存在しない、ということです。その意味で、たしかに、つねに真理は複数ですし、最後のものではありません。ですが、そのことは、どんな観念でも、合意しさえすれば真理とみなすことができる、ということではありません。ただしいとみなすことができる考えの集合は、自由な集合ではなく、外的、対象現実の性質によって制約を受けます。真理は全面的には恣意的ではありません。ですから、何が正しいかは、たしかに政治的、歴史的、つまり社会的合意によってきまるけれども、それは、正しいものでありうる考えのうちからであり、けっして全面的に恣意的ではない、と言い直すべきです。また、そこから、「唯一の真実」を決定するのに議論は無意味ですが、「より正しい」のは何かを探求する行為として、議論は有意味ですし、その結論は、たんなる合意にもとづくものではなくて、なにがしか客観性をもちます。「唯一の真実」など存在しませんが、「より正しい」ということはあります。ただし、ひとつの正しさよりも「より正しい」ものは確かにつねに複数存在します。しかしそのことは、何でも或る正しさよりも「より正しい」ものでありうるということではありません。「唯一の最後の真実などない」ということから「真実は合意にしか基づかない」へ飛躍するのは不当な観念論です。

再追記。

ちなみに、蛇足ではあるけれども、合理の彼方と合理についてぼくがどう考えているかは、坂口安吾「Farceに就て」を参照されたい。また、文学と論理についてはエドガー・ポウの「詩の原理」なども面白いかもしれない。思いつきの議論やプロットがつまらないのは非論理的だからではなくて、論理的過ぎるからです。「ありのままのもの」は感情や欲望も含めて、退屈なくらい「合理的」なものですよ。ぼくは、論理が万能などとは主張しない。ひとはつねに一貫しているべきだとも主張しない。つねに倫理的にふるまいえないことが非難にあたいするとも主張しない。ひとが合理や論理から解き放たれているとみなしているとき、むしろそのときにこそそれに隷属しているのだ、ということを主張しているだけです。

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