アンティゴネのための戦い
@23:40 一部、論旨を変えない範囲で表現を変更。
@01/27 さらに追記。
http://d.hatena.ne.jp/Tskk/20040126
ぼくはけっして理性の万能を信じているわけでも、論理だけでうまくいくとおもっているわけでもないのです。或る意味で、八十年代以降の思想は二正面作戦を強いられています。近代的な理性主義の堕落としての啓蒙的で教条的な合理主義と、その裏返しとしての理性や普遍を嫌悪するけれども代替は提出せず結果としてシニカルで快楽主義的に個人的な趣味の問題にすべてを還元してしまう悪しき相対主義との二つのわなと対決しなければならないのです。
ぼくは矛盾の価値を信じています。言葉を奪われたもの、いまだ言葉なきものは、一見して理性的な言葉の中には現れることはできず、その矛盾や亀裂のなかに、そのきらめくような破片としての姿をあらわす。
http://jouno.s11.xrea.com/predoc/works/log14.html
わたしが(悪しき意味での、つまり対話を欠いた)相対主義を嫌悪するのは、関係の拒否、対話を拒むことでそれぞれが自己の言葉に閉じこもる手段にほかならないからです。
http://jouno.s11.xrea.com/predoc/works/log06.html
わたしが求めているのは何でしょうか。それは言葉が他者に向けて、普遍性をもった、相手が従うべき何らかの根拠や正当性を持ったものとして語られるとき、そのような正当であるとみずからを根拠付ける言葉に対して、あなたが自らを根拠付けている理屈は矛盾しているし、理屈として成り立っていない、だから、あなたの主張はもしかしたら正しいのかもしれないが、あなたの持ち出した理由によってそれを正当化することはできない、という権利、そしてそれが説得力をもつべきであるということに過ぎません。
わたしは、自らを他者が従うべき普遍性や正当性をもったものとして根拠付ける、そういう力を持って働きかけ、正当化する、なにが「われわれにとって正しいことであるか」ということについて語ろうとする言葉に限って、それに対し、相手の言葉が自らを正当化している理屈、論理を抽出して、あなたがみずからを正当化し、わたしが同意すべきということの根拠とみなしているその論理はおかしい、という権利を主張しているのです。わたしは、かけらも、非論理的に語ることを否定しているわけではありません。
論理にも、理性にも限界はあるし、それは必然的に、論理や理性によっては語ることはできないものに対して抑圧的に作用します。それは言葉が無数のものを語り落とす必然を持っているからです。
ひとはお互いに言葉によって、あるいは広い意味では記号によってしか関係することができません。お互いにわれわれは他者です。私たちは、他者の内心や、言葉にすること、論理付けることのできないものを知ることはできません。たしかに、知ったと思うことはありますが、それがただしいのかどうかもさだかではないのです。ですから、わたしたちは、他者のそのようないまだ形のをなさないものを尊重することはできますが、しかし、それを自分にも適用すべき正しさとして提示されたとき、それをうけいれることができるでしょうか。わたしは、かけがえのない、しかし言葉にできない何かを、言葉にするための努力を尊重します。そして、その矛盾葛藤にこそ、価値が宿ると信じています。しかし、論理として、言葉として、自らを正当化するにいたっていない主張が、ただ思いの表現としてだけではなく、お互いが共有すべきものとして主張されたとき、それを受け入れることは強いられるべきではありません。すくなくとも、その論理の矛盾を拒否の理由として認めるべきですし、主張する側は、その正しさの信念を別にその批判でゆるがせる必要はないけれども、他者とその正しさの信念を共有しよう、そういうものとして根拠付けようと思うのなら、そのかぎりにおいて、理屈による正当化をするための葛藤をなすべきです。実際、相手のことなどわからないのですから、言われている側としては、で、どうしてあなたはそれが正しいと思うのか、あなたではない人にもわかるように話してください、といってよいはずですし、その理屈が矛盾していたら、どっちなんですか、ときいていいはずです。
社会システムに限らず、矛盾は必然的なものです。そして矛盾なきシステムは死んでしまうでしょう。すべてを整合させ完璧な体系をつくろうというのは、理性の傲慢です。ですが、矛盾をそのまま放置するところでは、矛盾は、そういうものとしてシステムの一部をなしているに過ぎないのです。矛盾を解決しようという動的な葛藤こそが生産的なものなのです。矛盾とは、つねに発生する矛盾とそれを解決しようというあらたなシステムの創造的動きとの、はてしないおっかっけことして、価値を生むものなのです。矛盾が、それ自体として、解決を迫るものとしてではなく、変革を迫るものとしてではなく、放置されるとしたら、それは、システムが巧妙にそれを抱きこんだということでしかなく、けっして矛盾として何か社会システム的に価値をもったということわけではありません。
創造的な相対主義とは、対話の、バフチン的なダイアローグの相対主義だとわたしは信じます。個々がみずからを他者から閉ざし、そういうものとして互いを尊重しあっている、世界を変わることのない博覧会のようなものとしてしまう相対主義は、決して肯定的なものではありません。ニーチェをもちだすまでもなく、いきること、存在すること、声を響かせることは、他者と関係し、対話し、葛藤することにほかなりません。
オトコノコ的な理性の抑圧的な、「啓蒙的」、身振りにぼくはつよい嫌悪を覚えます。ですが、それは理性一般を拒否する理由にはならないと思います。
http://jouno.s11.xrea.com/predoc/works/log16.html
他者に理解を求めず、自分たちの勝手なルールとして論理を押し付け、それを正当化する、謙虚さを欠いた理性、現実との対決、緊張感を欠如させ、自己顕示の手段と化したオトコノコがいばるための理性など滅んでも誰も困りはしません。
論理的に正しければいいというものではない、なぜなら論理的に整合的な所与の現実の解釈はいくらでもあるのだから。そして、論理が権威として機能するとき、それは醜悪な啓蒙への男根主義的な匂いを帯びる。
そうしたことを踏まえてもなお、わたしは、理性は多くの限界と矛盾を持っているけれども、少なくとも、他者に対して、相手が従うべきものとして自らを正当化するような言葉を批判し、あるいは、現実の経験から、そこからすぐにわからないことを推論するための手段として、論理にもとづく主張は説得力をもつべきだし、その限界は限界として、それにかわるものがあるだろうか、と考えるのです。
もともと、高橋さんの議論に対して、多くの人々に影響を与える政策の是非について、個人の好き嫌いの問題ではなく、普遍性のある根拠付けをもつものとして、つまり、具体的な特定の聞き手を実際に説得する意図があるなしにかかわらず、同意するならしたほうがいいものとして一般性を持つものとして、提示されている理屈、理由付けにたいして、それは矛盾しているから論理としては失効している、と批判したとき、主張が論理的である必要はない、とかれが反論したのがはじまりでした。
ですから、ことはシンプルなのです。思想が論理的である必要も、考えが論理的である必要も必ずしもありません。またかれが、自己の主張を正当化し、根拠付けることなく、好みとして提示したのであれば、それもまったく自由です。ですが、論理を自己の主張の正当化に利用しておきながら、論理的に矛盾していることによって、すくなくともその論理による正当化は無効であるという指摘を受け入れないのはおかしいでしょう。論理が権威として抑圧的に機能しうるものであればなおさら、論理をご都合主義的に利用して「いいとこどり」するのは間違っているのではありませんか。
論理的に主張できないならそれは間違いだと決め付けるべきだ、などということは一言も言っていないし、そういう議論にはぼくは強く反論します。(結果的に正しかったり、表現することができなかったけれども、その人の内部では妥当な推論が無意識に行われていたということはありえます。)そうではなくて、主張の論理による正当化は、その論理が矛盾していることによって失効する、ということです。ただし、その場合、もし、論理以外の手段で他者に自らを正当化するということについて、たしかにぼくはきわめて懐疑的です。そういう正当化をうけいれるかどうかはひとそれぞれですが、信用しろよ、というたぐいのものとしか思えないからです。感性的なものは普遍性を持ちうるか、ということへの疑問といってもいいかもしれません。
以下、やや枝葉の議論。
実際、論理から零れ落ちるものを正当化の根拠づけとして使うということ、それを受け入れるということは、そうしたもの、たとえば感性を画一化すること、そういうものの一般性を想定することにほかなりません。泣けるだろ、うん、泣けるね、というような感性的合意をもとになにかが根拠付けられてしまうことは、そのような共同性に属さないひとにとっては排他的なことです。その意味で、論理は純粋な形式であるがゆえに、特定の共同性による排除をともなわないという利点があります。
もちろん、論理が特定の共同性を前提にしない、というのは、論理を論理的に表現し対象化することができる能力は特定の共同性を前提にする、ということと両立しています。ふたつは別のことです。論理的に話したり考えたりしないひとでも、そのひとは論理に従っています。つまり排中律をしらないからといって排中律に反する行動を取れるわけではありません。念のためにいっておきますと、これは論理をつかって意思判断するというようなことではありません。それは、論理を使用できなくてはできないことです。
閑話休題。
洞窟の中でアンティゴネは言葉を奪われている。地上の徳と合理とそれはあくまで矛盾する。彼女のための戦いでは、徳と合理の限界を問うとともに、彼女を祭り上げ、彼女と地上の原理との葛藤をなかったことにして、それぞれ別の場所のこととしてしまうこともまた、拒まなければならない。彼女を祭り上げることもまた、徳と合理が彼女を支配するやり方にほかならないのだから。
追記。
コメント欄より。転載。
http://d.hatena.ne.jp/Tskk/20040126#c
# jouno 『そのとおりです。虚構です。で、それとぼくの議論がどう対立するのでしょうか。論理や理想がそれだけでは力ではないからこそ、力を持つべきだという主張が出てくるのですが。』
# jouno 『もうひとつ、これは似たことを野嵜さんもいっているけれども、わたしは「べきだ」といっただけで、魔法のようにそうなるとか、論理にしたっていない現実を認めないとか、論理的に何かを主張することが、実際的、政治的に何かを実現するのに有効な方法論だ、などとみなしているわけではありません。論理が、ぼくが限定したような状況で通じるほうが望ましいかどうか、あなたはどう思うか、ぼくは望ましいと思う、という話をしているんです。つまり、あなたが「である」として語る現実はそうかもしれないが(細かい部分で反論はあったりなかったりするけれども、要はそれは事実認識の違いに過ぎない)、で、あなたはその現実がどうあるべきだと思うのか、という話をしているのです。悪い意味で理屈が通じない乱暴な人がいるとして、そのことが変えようのない現実だったとして、だからといって、そのひとを批判したり、悪いと論じることは無意味ですか、といっているのです。』
# jouno 『もっとも、ぼくは変えようのない現実だと思っているわけではなくて、おっしゃるように現実に論理は一定の力を持っている。それを無価値なものと論じること自体がその力をより弱めることになる。僕はそういう行為に荷担する気はない。そしてそういう前提のもとに、もちろん、その論理の現在持っている力が抑圧的だったり間違った行使がなされないようにする「べき」だと思う、ということです。そしてそういう前提を共有した上ではなくては、論理一般がだめなのかとか、どういう論理の使用が抑圧的で、どういうのがそうでないのか、という議論自体がなりたたないでしょう。』
# Tskk 『手短に答えると私は「したい」「べき」の世界に生きているのではなく「である」「する」の世界に生きています。ただし、それは受け身を意味しているわけではありません。ラカンの言うところの鏡像段階なのかな?私にとっては認識・思考・運動などの能力が主体性の証で、自由意志その他は虚構的な牢獄なんですよ。』
# jouno 『ではあなたの言説も単なる自然現象であるということですか。あなたにとってあなたの行動も自然現象であり、思考する精神としてのあなたとあなたの行動との間には関係はない、と、そういうわけですね。でしたらぼくがあなたと議論する意味も、あなたがぼくと議論する意味もない。雨や風と議論する人間なんていないでしょう。ところで鏡像段階やラカンがどう関係あるのか、はっきりといってほしいですね。いいかげんな連想なんじゃないですか。想像界にとどまっている人間なんてラカン理論的にもありえないことはことさらいうまでもないでしょう。主体性の証ってなんですか。そんなもの誰も問題にしてませんよ。自由意志が虚構であるというとき、自由意志という概念がどれだけ哲学的に厄介かわかってるんですか。自由意志がある、ない、とはどういうことか、適当なことをいわないでください。そもそも、そういうことをいいだすならですね、「べき」の内容が今回の話題でも何でもよいことになる。そもそもその前段階でありとあらゆるべきを論じることの無意味をいうなら、議論そのものの意味をどこに見てるんですか。「である」「する」の世界にだけ生き、「べき」の世界の外に生きることができる人間などいません。それは単にそう思っているだけです。』
# jouno 『というわけで、ぼくはもう議論しません。』