メソポタミア
イラクの国家と市民社会とは同じものではない。あたりまえのことで、戦争は常に前者を理由に後者を破壊する。この根本的な問題をどう考えるか。
国家というのでいえばイラクは分割によって生じた国家なのでそんなに歴史は古くない。すくなくともネイションとしての歴史はあまりない。
他方で、市民社会、あるいはそこに住む民の歴史的連続性ということからいえば、アメリカは数万年の先住民の歴史をも背負っている。そのことは以前書いた、連邦制とイロコイ連合国家、という視点ともかかわると思う。
反米、というまえに、アメリカはクリスチャン・ファンダメンタリストだけの国ではない、というあたりまえのことを、イラクがフセイン・バース党だけの国ではない、ということと同時に想起すべきだと思う。
ブッシュ政権に反対しながら、反米というナショナルな視点に傾くことをいかに避けるか、そして、重要なことは、ネイション・ステート以後をどう見据えるか、ということだとおもう。
たしかにアメリカは何度も内政干渉を人権擁護の世界の警察の名で行ってきた。その意味では、アメリカは国家に上位の権威を認める、非ナショナリズム的思考を色濃く体質として持っていることは事実である。(たとえそれが、結果としてやはり国益の隠蓑に過ぎないとしても、理念としての話である)
実際、移動と流通の拡大は、現実に、ポストネイションの様相を濃くしていて、ある程度までは、ブッシュ政権の言うように、国家主権を、「人間の安全保障」のために制限しなければならない、という議論は正当だと思う。
だから、反戦平和の運動には、ひとつの大きな問いが本当は突きつけられているので、そのことがもっと思考されるべきだ、とぼくはおもう。
つまり、アメリカのような超大国が普遍を僭称することによって成立する、国際的安全保障の枠組みにかわる、より、インターナショナリズム的で、なお有効な、「国家ではなくそれぞれの住民の安全保障のため」の「国際的な権威と執行手段」の、実現可能なモデルを提示することである。
国連を現在のアメリカが世界征服した場合のような世界政府としてではなく、より実効性を持ちつつ権威的ではない連帯の機関にすることはできないものだろうか。