「最後にあるもの」梶谷友美
半島を行く鉄道のなかで、友人は、社のように、いくつもいくつも門をくぐっていく、そうしてたどり着く、そこには何もないのかもしれないけれど、そういうふうにして、幾重にも隠されていく、そういうことにひかれる、そんな風なことを言った。
私はいや何もないんだよ、そんなのまやかしなんだ、そういう社の中をくぐっていって、そんなつくりだされる神秘に不感症で、平然としているような、そういうひとをぼくは書きたい、そんなことをいった。
考えてみればぼくはへんな気負い方をしていたのかもしれない。坂口安吾のように、合理主義である限界を突破する、そういう像、すべてのドアを突破する風にあこがれていたのだ。
しかし、いまとなって、友人の言ったことがわかるような気がしている。
隠すことが、何かを隠すというよりも、隠すべき何かを作り出すことであるなら、そこには、なにか虚空から花が咲き誇るように、たしかに、何もなかったはずのところに、なにかが生まれるだろうから。
そういう信頼もまた、風への憧憬と同じように、ひとつの強い意志なのだと知ったからだ。
……その友人が本を書きました。よかったら、読んでみてください。