ストックとフロー、blogとwiki あるいは。
大雑把に言って、単位となるテキストのまとまりが、時系列で書かれ、管理されるのフロー・テキスト、そうではなく、テーマ志向で、いわば空間的に、ディレクトリ的、非時間的に管理されるのを、ストック・テキストと呼びたいと思います。
すると、掲示板、日記、ニュースサイト、blogはすべてフロー型更新としてまとめて考察できる。他方で、ストック型のさいたるものは創作系ホームページ、時事的ではない情報のページ、WikiWiki、リンク集、といったものがあげられます。どちらにも、ストック型のコンテンツがあり、フロー型のがと混在はしていますが、いちおう、メインはどうか、ということはいえるわけです。
で、実際には、ネットの重要な部分を担当していて、実質的に役に立つのはむしろそっちであった、ストック的なコンテンツ、サイト、百科事典的なもの、創作的なもの、あまり時事的ではない考察、そういうものが、どうも、逆にネットを論じるとき、つねに取り落とされてきたのではないだろうか、とぼくは思うわけです。
ある意味で箱の中の小人さんがつくってくれるかのようなストック的なコンテンツを、検索を頼りにまったくのいちげんさんとして訪れて享受してその出会いに感動したり助けられたりする、そういうものを、フロー的なコンテンツが提供するコミュニケーション的なちからと同時に称揚していくのでなければ、まったくの片手落ちだし、the web がもちうるちからも皮相なものになってしまうと思う。なぜなら、孤独になって考える時間がなければ、人と会っても凄い話なんかできないからだ。
network styly* の議論でも出たように、他者との出会いへの備えというとき、実はフロー的なテキストのようなコンテキストを持たないがゆえにひらかれているストック的なテキストこそ、フローがつくりあげる部族的な絆を、社会的なものに開くひとつの回路といえるのではないだろうか。