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Drifting Antigone Frontline

role playing or deus machina

2003/03/09 05:35 JST

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アメリカではドイツ企業へのボイコットの風潮がちらほら出ているらしい。平和を訴えるTシャツをスーパーで着ていたことで逮捕された弁護士のニュースも流れた。ピース・ナウには四万人が集まったが、社会的インパクトはそれほどなかった。マスメディアのせいともいえそうだが、そうともいえまい。制服向上委員会がそこにいてびっくりして検索したら、社会的な活動に熱心なグループらしい。米yahoo! の掲示板をのぞいてみたら、ヨーロッパの新聞がアメリカを批判しているのに苛立って、ヨーロッパを廃墟と腐敗した専制の土地としてえがく言説がながれていた。

型というのは便利なものだ。ましてそれが不可視のものならなおさらだ。文章でも、構文というものが内容さえも決定する。無意識にロールプレイしてしまうのは、かならずしも、意識的にそれが楽だと思うからではない。「自然さ」という装置が働くからだ。どんな場合でも、自然さの感じには、装置が潜んでいると考えていいのだろう。「イデオロギー」はわたしたちに、いたるところ、主役のところだけが空白になった物語を聞かせてくれる。そしていうのだ。これはあなただと。アルチュセールだったか誰だったかが、イデオロギーは個人に「呼びかける」、名前を与えるといった。呼びつけられることで、ひとは、ああ、わたしはそれだ、と自己確認する。それが、装置の中で、役割へと疎外されるということだ。

ちょっと、顔出し看板に似てる。

道を歩いていて、「おい。おまえ」と呼ばれる経験、IDを求められること、わたしは他者だ、ということを許されない、ある政治的場面、仮装は生存のためには不可欠だ。

「戦争」は静かで終わりなきこの普遍的内乱を一箇所に集め、転嫁してほかの場での「平和」を達成しようとする行為だ。しかしその意図と裏腹に、この静かで終わりなき普遍的内乱はむしろその戦争から暴虐のちからをくみあげてしまうだろう。明確な領域の区別はもはやないからで、一箇所にあつめることで回避しようとした水圧は、まさにそれゆえに決壊してふたたびほかの場に破壊的なフィードバックをもたらす。そして、つねに後始末に追われるのは、戦いを企図しなかったものたちだ。

型に対しては意識的に反復してその可能性を追及し、全体から切り離して異様なものへと変貌させるか、徹底的に逃走しつつ遊撃するしかない。

国連抜きで、あるいはいまとなっては国連とともにアメリカが進撃をしたとして、そのことが、「国際社会」、地上の人々の心理に及ぼす影響ははかり知れないのではないだろうか。国家の上位に位置する良識や話し合いといった価値観、連帯可能性への信頼が深く傷つくのではないだろうか。現在でもすでに存在する、アメリカはどうせやるだろう、というニヒリズムは、ますますつよまるはずだ。われわれはそれを現実主義と呼ぶかもしれないが、実際にはあまりにも根の深い虚無主義でしかない。

自分たちの行為が歴史に記されるだろうということ。取り返しのつかない形で。