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Drifting Antigone Frontline

SFと学園もの

2003/03/10 21:15 JST

 個人的になつかしい「蓬莱学園」(UOみたいなかたちで何処かやってくれないだろうか。いまこそやれば面白いと思うんだけど、あんだけ膨大な蓄積があるというのにね)をはじめ、高橋留美子の短編作品やその系統のサンデー系の(「私立徳川学園高校」(十二日、追記して、訂正。「徳川生徒会」でした)とかいうのもあったっけ)、あるいはむかしの番長ものなんかも考えると、学園ものというのはかなりの伝統をもっているけれども、そのなかでもいわゆる学園ものといっていいような、現実の学園生活をえがこうとするものや、学校生活が不可欠の背景であるに過ぎない場合と、それとまったく違って、学園というものがひとつの隠喩となっている場合とがあると思う。
 端的にそういう場合重要なのが生徒会ではなかろうか、と思うわけです。
 生徒会を国家の隠喩として焦点化していく。あるいは、学校生活のなかのそうした組織を、社会における組織と二重写しにして、たとえば軍事組織とみなしてみたりする。「漂流教室」なんかでもそういう共同体イメージが重要で、学校生活のかなり名目的なものに過ぎない組織が実質的なものになる、そういう快楽というものが、あるのではないか、と思う。
 ライトノベルや漫画の世界ではこうした特殊学園ものというジャンルは非常にポピュラーだけども、それはたしかに読者層に馴染みがあるということがあるとしても、むしろそこには労働という因子を無視したところでの「政治性」「遊戯性」といったものがえがける、ギリシア的市民の位相、あるいは中世貴族の位相を、学生は隠喩的に体現できるからだとおもう。
 学校の組織というのは名目的であるがゆえにかなりさまざまな組織の隠喩にできる。それは部族でもありうるし、ギルドでもありうるし、政党でも、行政組織でも、宗教組織でもありうる。また、部活動というものの多様性がそうした融通無碍さを援護する。そして、ギリシア市民の位相というのは、要するにそうした活動ばかりしているという設定がうそっぽくみえないということだ。
 社会全体をえがく、というのはある意味で根源的な物語の欲望で、そのことに、雛型としての学校というのは、非常にうまく答えているのではないだろうか。

  1. 学園ものは生徒会が肝
    StrangeIntimacy :: SFと学園もの  『蓬莱学園』みたいなネットゲームが作られそうで作られてないのは、日本の学園モノだと海外展開が難しいから? 漫画のタイトルが微妙に??だったんですが、中津賢也氏の『徳川生徒会』ですね。  生徒会や部活動といった存在が社会の組...

    Trackback by ARTIFACT -人工事実- — 2003/03/12 @ 2003/03/12 19:26 JST