建前という言葉、偽善について

 建前という言葉にかなりまえから納得がいかないでいるのです。建前や奇麗事というのは具体的にはどういうことなんでしょうか。というような疑問文はどうせ修辞疑問だからいやらしい、とどこかで声が……基本的に最近バフチンにいや最近じゃないけど私淑してるので、ああていうかもう有名人の固有名詞を出すことへ根源的自己嫌悪というのもありつつ、建前ですが、事柄は、正しいか正しくないかでしょう。

 ある考えをあらわした文Aがあるとしますよね、それが奇麗事である、とみなす人はその文に反対しているのか、賛成しているのか。もしも、反対しているのなら、それはその文の内容が間違いであったり、不正であるからこそ、反対なのでしょう。賛成しているなら、自分もそう考える、ということでしょう。理想主義的なものいいに対して、奇麗事であるとか、建前に過ぎない、といって反対する人は、いったいどういう立場にあるのでしょうか。そのへんが、いまひとつ、よく、わからない。

 奇麗事である、という以上、その考えが、正しいことは認めているのか、それともその理想が実現されるべきものであることまで反対しているのか、その辺がよくわからないのです。もしも、ある理想を表向きかかげて、じつはそれを信じていない、あるいは実行する気がない、というひとがいたら、それはその人の咎でしょう。それをとがめ、反対するのは理解できる。しかしそのような反対は、まさにそのひとに対してのものであって、その理想や主義や意見に対するものではないはずです。なぜなら、そのような反対は、その主義をむしろちゃんと実行せよ、という文脈においてなされるものであるからです。

 もしもその考えそのものに反対なら、そもそも、それはその考えが、不正であるから、反対なのでしょう。建前や偽善といった概念は、この場合、まったく、不要です。建前とか奇麗事という言葉は、ひとつの理念に対する、決定的な立場のとり方において、ものすごく不正なあいまいさをぼくは孕んでいるとおもう。なぜなら、そのような反対の仕方をするひとは、その人に反対しているはずであるのに、その考えそのものに反対しているかのように振舞い始めるからです。

 明文において規則を考える、ということにもこれはつながります。或る規則がまちがっているなら、それは改正すべきでしょう。ただしいなら、守るべきです。改正することができない不正があるなら、その不正を鳴らすべきです。あたかも、間違っていると考えている規則や条文を表向き従いながら、その理念的正当性さえ表向きは認めながら、それと反することを行い、それを本音と建前などといって温存するのは、最低です。なぜならそれは根源的に、自己がある理念を引き受けるか引き受けないか、という決断において、無責任だからです。

 そこには、逃げ道があり、どちらにもつくことができる。しかし、内的な場において、わたしはある理念を認め、かつ認めないことはできない。そのような自分の中のいくつかの立場を対話させ、みつめなおし、自分にとってなにがただしいと思えるかを放置して、複数の立場を自分の中で切り離して平然としているなどというのは、不当な分裂以外ではない、と思います。

 だいたい、欲望に従うことが本音であり、人間の本性であるという考え方にどれだけの根拠があるというのでしょうか。そのような卑俗な訳知りこそが、「考える」ということをなしくずしにせずにすませているのです。ひとはたしかに無数の欲望や意志をもつ。しかしそうでないものもまた、内側から発するものです。なにが本質でなにが外面的なものに過ぎない、という議論にはたいした意味があるはずもない。動物なら知らず、欲望に屈するということは、すでにしてひとつの理性の決断であり、それをそのひとは意図して選んだのではないでしょうか。

 ぼくはたぶん、言葉の意味とそれが指し示すものがずれていることに不正を感じる人間なのです。もちろん、ぼくは観念の世界のほうがすばらしいなどとはまったく思っていないから、言葉のほうを、そのときには変えるべきだと思うのです。実体を持たない言葉の幽霊に縛られるなんて、最低だとは思いませんか。

00/10/02