三から四へ 不確定な正義に就いて

 列島文化を特色づけるのは、キャスティング・ボードの権力です。キャスティング・ボードの力学で権力を握った場合、主義主張の内実は問われず、ただ形式的に、中間であるということだけが評価されます。ということは、理念をかかげて論争することが出来ない、対話が無効化されてしまうということです。二極に属さない限り、何をしてもよいということになるのです。しかもこういう事態が制度化されているので、逆に、表向きの対立は、この第三極のためのエクスキューズと化しているのです。
 このことは、個人の内面にも見ることができます。それは、本音、建前、意志の三極です。ふつう、本音と建前の分裂といいますが、実際には三極に分裂しているのです。本音というのは、実際には、欲望ではなく、欲望はこのようであるに違いないし、このようであるべきだ、という観念です。そしてまた、本音が時と場合によっては正当化されて語られるように、ひとつの理念、主義です。だからこそ、腹を割れ、であるとか、本音で行動することはすばらしい、と語りうるのです。他方の建前も、それが本音との葛藤の中で、それが正当であるかの反省が棚上げにされうるかぎりで、本来的な意味で「理念・理想」ではありません。
 しかし、考えてみれば、本来、そのひとがあることを意図して決断する理由が理念であって、これは定義なのです。だから、ひとがなにかを意図して決断する限り、たとえ意識されなくても理念、主義はあるのです。つまり、選択があるかぎり理念がある。逆ではありません。ところが、あたかも、理念的反省を棚上げにした決断があるかのごとくです。どういうことでしょうか。これは不可解な事態です。なるほど、無意識的に決定してしまったというような、「動機の不可知」ということはあるし、それはそうです。しかしいま問題にしているのは、理由です。動機ではありません。
 実際には、客観的にそのひとの選択の連鎖を観測していると、ひとつの立場がつねにくっきりと浮き上がります。一貫していなくても、連続し、それ自身の論理をもったシステムがたちあらわれます。しかしこのシステムは問われないし、自分でも主観的には見えません。立場がない人のことをわたしは非難しているのではありません。立場がないかのようなひと、つまりキャスティング・ボードの権力構造をわたしは非難しているのです。
 選択があるということは、理由があるということです。なんらかの理由が、自分の中で優位を占めたから、そのひとは決定に至ったのです。しかし主観的にその理由、論理が見えなくなり、問われず、意識的反省の対象にならないのは、本質的にはまったく対話を欠いたみせかけの対立、両極端を内面に設定し、そのあたかも妥協案のようにして、そのように仮装して自己の決定を生成させているからです。この三極分裂、自己の欲望を論理的に正当化せずただ中庸としてのみ正当化する態度こそ、無責任の構造なのです。ふつう、自己正当化は非難されますが、しかし、語ると言うことはすでに自己を正当だとみなしているからです。だから、重点は論理的に自己を正当化する、ということなのです。なぜなら、論理的に自己を正当化する限り、その論理によって自己を批判することが出来るし、他者と対話することが出来るからです。論理的に自己正当化をせず、しかも主張する、というのは、どれほど謙遜なみせかけをまとっていようと、不正なおしつけ以外ではありません。
 この三極構造が維持されるためには、内的な二極は非現実的なまでに抽象的で、他方の論理とまともに対話してはなりません。だからこそ、二つの立場を平然と時と場合に応じて使い分けることが、内的矛盾もなしに可能なのです。なにしろ、本当の立場、意識されない隠された立場はどちらの立場でもないのですから。論理を実存的にひきうけるということは、自分の論理が自己の意志と矛盾したとき、どちらかが改新されるまでひとつの危機としての内的対話葛藤を生き抜くということです。二つの立場を内部に放置し、たがいを隔離して論争を棚上げにし禁止する態度というのは、じつのところ、さらに上のレベルに、反省をまぬがれた超越的な立場を保存してしまうと言うことです。
 必要なのは、三極を二極へと変えることでしょうか? おそらくそうですが、さらに言えば、むしろ、三から四へ、ということが問題なのだと思います。正義は不確定なものとしてしかないと思います。それは正義としてではなく、不正としてしか知覚できないものです。二つの立場、そのとき、ひとつの立場の反対と、他方の立場の反対とで、実際には四つの立場があるのです。二つの立場というのは、容易に、一方を他方のただの反対として処理してしまい、実際にはひとつの立場とそれ以外というかたちに堕落してしまうものだと思います。それをふせぐためには、きわめて不確定な、危機的な、四極が必要なのではないでしょうか。
 ひとは正義について、あるいは謙遜に、あるいは自信たっぷりにかたります。たとえば正義を相対的なものとして、あるいは相互的なものとして、あるいは慣習的なものとして、あるいは絶対的なものとして。しかしわたしは、正義を自分の立場として持つことは決してできない、と考えます。原理的に、わたしたちは正義の所有者、執行者ではありえません。わたしたちはただ、不正を問うことが出来るだけです。不正は存在しますが、不正の反対は何かというとそれはきわめて不確定です。だからこそ、正義は不確定であるが故に求められるべきだと思います。殺人が不正であるとしましょう。では正義とは何でしょうか? 殺人が不正であるからといって殺人を実力を持って禁止することが正義でしょうか。それは不確定です。そうであるかもしれないし、そうでないかもしれない。つねに、ひとつの不正に対応する正義かもしれないものは複数ある、だからこそ、正義は原理的に不確定です。しかしだからといって、その不確定な複数の正義のどれをえらぶも相対的、平等にただしいということには決してなりません。なぜなら、選択がある限り理由があるからで、そしてまた、正義は不確定でも不正は間違いなく存在するからです。
 妥協が葛藤対立の現実的場において必要であるのは間違いないとしても、そのときその妥協は、両者をそれぞれ変貌させ、対立点を更新するようなものでないかぎり、実質的な効果をもちえないのです。そのためには、実質的な意味を持つ対話と言うことが不可欠です。つまり、あらたな立場の生成の場として対話は機能すべきなのであって、中庸を得た妥協案、折衷案を見いだすような場であってはならないと思います。じっさい、単なる中間的、折衷的な妥協案は、双方を納得させないために無効です。
 実際には、妥協というのは、葛藤を停止させるために行われるのではないのです。隔離と同化がともに暴力的な手段に依ってしか可能でなくまた本質的に不毛である限り、差異があるかぎり対立は存在するし、その対立には意味があります。理由があるからこそ、根があるからこそ対立は存在するのであり、妥協がそうしたものの暴力的な抑圧として機能する限り、事態はむしろ悪化しているとみなすべきでしょう。

00/10/28