イノチヲ絶つトイウコトをどう思うか

 「魂の不死がなければすべては許されている? はたして本当にそうですか?」 「カラマーゾフの兄弟」から

 でもそれはそのことについて語ることはどういうことかって、すぐに問われることでもあるよな? ソノコトについて語るってことは、知らないことについて無責任に語ることになりかねないって思わないか? 本当に誠実な態度ってのは知らないことには沈黙を守ることじゃないか。死にたいと思ったことも、死んだことも、殺したこともないのに、何が言える?
 そうかもしれませんがね、じゃあ、面と向かって問われたり、決断を状況が迫ったときはどうするのさ。誰だって完璧な言葉なんてもってないんだ。わからないことにこそ、言葉は求められるんじゃないか? それじゃあ、このまえのどっかの少年が、人殺しを体験してみたかったといって行動したのを認めるようなものじゃないか。早い話がさ、なぜ死なないのか、なぜ殺さないのかってことがあるんじゃないか。そして目の前で人を殺そうとするやつにたいしてあんたはどうする? 理由もなく信念だけで動くのか? それが正しいかどうかなぜ分かる?
 そんなことはいってないよ。だけどどうしたって言葉はどうせまだ死んでないやつのためのものじゃないか。その言葉がどうして死を肯定する? こたえは分かりきってるじゃないか。もちろんきみは生を肯定してお説教をぞろはじめようというんだろう? そんな説教、まるでもうひとつの宗教、いってみれば癒しとやらじゃないか。いつもいつも理由が必要なのか? モラルに理由なんてあるもんか。そう思うとしかいえないじゃないか。
 違うよ。経験したことについてしか語れないなんていわないよ。ただぼくは許せないんだ。勝手に死ぬなんておかしいとおもわずにはいられないんだよ。死ぬのなんてただ動かなくなるだけで、そのほかにはなにもない。ゼロだ。退屈だよ。永遠の停止なんて、無意味だよ。
 へえ。今度は安吾の口真似かい? ようはあれだろ、「どうしてひとをころしてはいけないのか」とか、「どうしてしんではいけないのか」っていうのを現代版の究極の問いといいたいんだろう? だけどそんなことに本当に人々は悩んでるのか? 現にさいきんのあんたときたらほとんど他人と口を利かず、ただ部屋に閉じこもってるかアルバイトで働いてるだけじゃないか。過ぎ去った話題だってみんないってるぜ?
 それじゃあ解決がある、ときみはいうのかい? ぼくはわからないということは大事だと思うんだよ(へえ、えらそうだな)答えがないということはもうひとつの偽りの答えだし、分からないことを分からないからこそ問いつづけてこそ生きている意味が(「意味」!)あるんじゃないか。
 なるほどね、でもその生きるとやらがましなことかどうかが分からないって話だろう? なんか矛盾してないか、いってることが。そうやって言葉で価値だの意味だのいうかぎり、死について語れやしないさ。だいたい死が停止に過ぎないから無意味だっていうけどさ、そりゃあ、死んだらもう自分はいないんだから自分の経験じゃないよ、死ぬってことはさ、それだからって死が無意味とはいえないだろう? だいたい論拠をきみはずらしているんだ。正義派ぶってるけどそういうずるさはいけすかないね、無意味なことをして何が悪い?
 いやそもそも私が思うにこの問いはぜんぜん答える必要がないのではないかな。モラルには理由がないのだからこんな無作法な問いを向けるやつはぶんなぐってだからそうなんだといえばいいのさ。
 ああ、あなたはそうでしょうね。道徳とやら、社会の安寧、秩序の幸福で満足してらっしゃるんでしょう。でもぼくは答えが欲しいんだ。子供の頭をぶん殴るあなたが奉仕活動などという調教、ディシプリンでことがすむとおもっているんです。でもぼくがいけすかないのはあなたのようなひとは、自分は考える必要も権利もあると考えていることですよ。保守的な思想なんてものは意味をなさないんだ。普遍的な理由付けをする必要はない、というのなら、そもそも理屈でそういうことを権威付けるのだってばかばかしい真似じゃないか。習俗が無前提にただしいというのなら、思考も言論もやめちまって政治家になればいい。だれよりも民衆をばかにして大衆と呼びつけたり国民と理想化したりしてこけにしているくせにそもそもそういうあなたが何者です?
 立派な演説だね。まったく英雄じみた振る舞いというべきだよ。しかしあのおっさんのいうことにだって一理はあるんだぜ。ひとはただ死んだり殺したりするんだ。理由なんてあるもんか。禁止してなんの意味がある? それともあらたな掟をあんたはつくりたいのかい? もしそうだとしたら、結局、あんたとあのおっさんとのあいだにどれほどの距離がある? 死にたいやつは死なせればいいし、殺したいやつはこっちがいやだからって理由でぶんなぐり、とめられなかったらほっとけばいい。国家だって死刑をする。それも共同体のエゴイズムからだ。このまえ、少年犯罪で殺人被害者の権利云々でがんばってるひとが、反省してから死んで欲しいといってたが、ありゃなんだ。かわいそうだと思うし、あの少年は鬼畜にひとしいとおもうよ。だけどね、だからって他人を殺したいというならあるいは権利かもしれない。だが、反省して死んで欲しいというのは、気持ち悪いとはおもわないか。それともきみはただしい殺人、ただしい死がとくにあるとでもいうのかい?
 たしかに理由なんてないだろうし、他人の内心を支配したいなんて、道徳のお化けみたいで薄気味悪いよ。それでも解決は必要だとぼくはおもうんだよ。だってさ、いいかい、それでもそのこと、死についてどう考えるかということは、ぼくの生活を貫いてかかわりつづけることじゃないか。永井均みたいに「趣味」の問題といってのけたっていいのかもしれないけどね、それでもぼくは決断を迫られうるのだし、そのときぼくはもはや言葉をもってしまっている以上、普遍的な理由付けからのがれられないんだよ。言葉をもってしまった以上、理由なく行動することがぼくらはできないんだ。理由なく行動するときさえ、ぼくらは、自分に、これは理由なく行動してもよい場合である、という理屈からなる許可の理由付けを与えてしまうんだよ。どれだけ、理由をつけることをきらうひとの言動の中に、無意識の理由付けが、理屈がかくれているか見てごらんよ。理屈を無視すると、意識されないだけに単純で洗練されない理屈に占領されてしまうんだ。
 普遍、普遍って煩いなあ。普遍的である必要なんかないじゃないか。そりゃあ、理屈はもう普遍であるかもしれないけどさ、じゃあ、普遍的である必要はない、という意味の理屈だけ実証してすませておけばいいじゃん。人間は生物だからたいてい死にたくないんだし、死ぬやつはなにか勘違いしてるんだよ。殺しがいけないのはみんな死にたくないからだろう。どこが難しいのさ。
 ぜんぜんそれじゃだめだって。生物学がなにを実証しようとなんの理由付けにもならないよ。それはたんなる原因の解明で、理由の解明じゃない。理由と原因はぜんぜんべつじゃないか。それにきみがいってるのは、ひとがひとを殺したり、死んだりのはなしだろう? きみは、どうなのさ。そのことへの問いなんだ、これは。その理屈からいえば、きみ以外がみんな殺しを禁止されてれば、きみは殺してもいいことになる。だいいち、死ぬことを認めるかどうかと、死ぬことにするかどうかは別だし、死にたいと思うかどうかも別の話じゃないか。
 だけどね、それでもおれは変だと思うよ。死ぬことを認めるかどうかも、殺しを認めるかどうかも、そんな議論が成り立つのはどうせ、死ぬことや殺すことが自発的に選べるやつだけだろう? 勝手だよ。殺されそうなやつに「さあ、どうしてひとを殺してはいけないの?」 と聞くのも愚劣だし、病床で死を目前にしている人に自殺の是非を尋ねるのだってばかばかしい。だいいち、ぼくは聞く。いいかい、よくききなよ、それで、肯定なり否定なりに解決がついたとして、それがなんなんだ。どうするつもりなんだ? 
 分からないよ。分からないけど、愛する他者がころされたとき、きみはどんな根拠で殺人者を非難する? 自分の感情をそれはぼくは肯定するだろうさ。そのときはそれでいい。だが非難する自分を肯定できるのか、ぼくは。そんなことに理屈を持ち込むな? だけど理屈はあらゆる場所にあるんだよ。逃げ場なんてあるもんか。自分のこころからなる確信だからといって、それが正しいということにはならないだろう?
 お涙頂戴な仮定だけどね、結局きみは正しい側にいたいのさ。間違っていても非難すればいいじゃないか。きみがそうであるほかないなら、自ら選んで愚劣を犯せ。
 はん。きみこそ、そういうのをご託宣というんだ。なるほど、引き受けざるを得ないよ、僕は自分をね。しかし、それとたんなる居直りをどんあふうに区別する? 聞こえはいいけど、きみは相手の聞きたがっていることをちょっとだけ鋭い洞察とともに返してるだけだ。選ぶ以上はそこにもう言葉や根拠付けがあるんだって、いってるじゃないか。それは誉められたいがゆえにぼくは正しい側にいつもいたいのだという側面は認めよう。けど、それだけだとなぜきみはいうのさ。ひとはそれだけの理由で正しさを求めるのかい?
 たしかにきみたちは熱心だよ、だけどこんなの、モラルについての一般論でしかないよ。ほんとうにきみらは死について語ってるのかい? わたしにはさっぱりそうみえないよ。たんに議論がしたかったんだろう? ね。
 どうして死にたいのかなんてぼくに分かるもんか。死が眠りだという錯覚のせいだと考えてもみたさ、逃れたいという気持ちからかもしれない。もしかしたら最後の最後まで本当に自分が死ぬとは信じてはいないのかもしれない。ウェルテルみたいに当てつけかもしれない。あれこれはいえるけど、分かるもんか。ただ、死ぬなといえるのは、どんな場合かと考えることはできる。死ぬことが悪いことだから死ぬなというのは説得力がぜんぜんないよな。愛してるから死ぬな、というのはでも、なんだか、エゴイズムのような気がするんだ。だって死にたい人はそれなりの理由がつねにあるはずじゃないか。ぼくがそのひとを愛しているということがそのひとにとっていったい何だというんだ? 関係ないじゃないか。
 じゃあ、いきているほうがいいといって、死ぬなという言葉を正当化するのかい? それはおかしいよ。それはたんに説得してるだけだ。本当に死ぬほかに道がないとしたらどうするのさ? それに、誤解で死ぬことがあったとして、きみはなぜそれをとめる? その理由こそ問われてるんだろう? むしろ他人に自分を投影してるから死ということがいやなんだとでも考えたほうが気が利いてる。理由はきっとないんだよ。
 だったらいまぼくはどちらでも、肯定でも否定でも選ぶのは自由だというのかい? ぼくは別の判断を下した他者に対して、ただ力で対抗することができるだけで、どんな論理による対抗も原理的にできない、と。そういうんだね?
 そのとおりさ。実際、おしゃべりはみんなしてるが、実際にやってるのはそんなことだ。死んで欲しくないのはそのひとの自分にとっての表れを失いたくないからだ、というエゴイズムだって、立派に理由になるさ。このうえないくらいのもんだよ。だいたいエゴイズムのほかに何がある? 
 でもそれは死ぬなという理由にしかならないよ。死ぬべきではないと自分が考える理由に、わたしを愛する他者がいることはなるだろうか? だって、それはつまりあれだよ、ぼくには死ぬ権利があるかどうかということだろう、つまりは。
 権利? また困った言葉を持ち出すよな、きみは。誰が禁じるのさ。禁止がなければ権利もないだろう?
 ぼくだよ。ぼくがぼくに禁じるんだ。論理が、といってもいいし、倫理かもしれない。わかんないけど、すくなくとも、自分にルールを課して、どういうとき自分を責め、抑制し、どういうときそうしないか、ということを、なしですませることは、動物でない限り、できないだろう?
 じゃあいうけど、ひとは自分のことについて自分で決める権利もないのかい?
 絶対的な自由なんてでもありえないじゃないか。右も左も同時に選べやしないんだから。選択があるということは制限があるということだよ。ぼくにとっては、ぼくであるということが制限だよ。ぼくはきっと他者への責任というものがあるとおもうんだ。死ぬってことはさ、やったことやできたつながりをほったらかしにするってことだろう? 他人の死に付いて言えばさ、やっぱり、勝手に自分だけいなくなるなんて、腹が立つだろう? 応えないということは不正だとぼくはおもうんだよ。
 いちぬけたはいけないというのが、死なない理由? でもそれだってその理由そのものの理由はないだろう?
 あたりまえだよ。理由の理由の理由の理由で以下永遠だからね。
 おかしいじゃないか。それにそんなことで、死にたいというまでの断崖に立ち向かう言葉を吐けるのか? それにそれは、殺すかどうかという問いには、ぜんぜん無効じゃないか。だからだいたいその責任って、どこからうまれてくるんだよ。それじゃ、結局、道徳になっちゃうんじゃないか?
 
 ……(対話は終わりなくつづきますが、今回はこの辺で。)

00/10/07