よそ者による建て直し

 どうなんですか、お客さん。よくテレビを見ていると(またよくテレビを見ているのだが)、映画でもそうですが、ダメダメな感じになった共同体、野球部とかあれた学校とか潰れそうなラーメン屋とかに、ある日やってきた外来者が技術とかいろいろをおしえて凄い感じに立て直して去っていく、カンバーック・シェーンみたいな話というのがやたら目に付くのですが、別にそういう話はいいんです。王道なんだから。しかし、そういうとき、仮想敵として、すごい勝ち誇ったワルイやつが出てくるわけです。外国の映画だったら、敵のたとえばチームだったりたいていナチっぽかったりロボットっぽかったりするわけですが、そういうのに最後に決戦して勝ったりするわけですよね、最初だめだったのが。
 そこに誤魔化しがあるので、強くなるということは、その最初、敵だったものに似ていくということに不可避的にならざるを得ないわけです。儲かれば弱小を虐げざるを得ないし、勝つということは、もしかしたらその相手もまた似たようなストーリーをたどって立ち直っているようなチームかもしれないというようなことが不可避的にある。つまり、どうしたって逃れがたい暗部というのはあるんです。このこと、勝つことでほんらい最初はすでに覇権を得ている相手に対してアンチテーゼとしてもっていた筈の違いを失わざるを得ないのではないか、という「苦さ」をきちんと見つめてストーリーに反映しない限り、ぼくはこういうマレビトによる再生の物語は信用ならないと思っているのです。それに民俗学的なこういう王道の胡散臭さは、この外来者は聖別されるんだけど、追い出される。用がすめばさよなら、ストーリーの都合上は死んだり、自発的に出て行ったりするわけですが、しかし本質的には、共同体が、祭りのあとには外来者は要らないと考えているからです。本当に必要なのは、こうしてつねに交代する悪循環の外部に出て、ゲームのルールそのものをどうにかすることなのですが、まあ、そこまで要求するのは酷としても、こっちが勝つのはイイコトであっちが勝つのはワルイコトというふうに、ストーリーのもってきかたや音楽や映し方でリードしてしまうのは、もちろんどんなストーリーテリングにもつきまとうことではあるけれど、ちょっと不正なんじゃないかなあ、と思ってしまう。

00/10/08