様々なる意匠/衣装/異称……制度としての自己表現

 いまどき、同名異義語に依って文を始めることは限りなく恥ずかしいことに違いない。まして、先人の批評をもじって小粋な副題をつけるなどというのは、これはもう完全な使い古されてすり切れたニュウ・アカデミズム流儀というやつだろう。小林秀雄の「様々なる意匠」にシムボライズされるごとき昭和10年代の文学的狂騒と、オンライン・メディアにおける表現の氾濫とを二重写しにしようという意図さえもことさらに目新しくはない。しかし……云々という物言いこそ、じつは現在の文章の典型なのであって、すでに書かれているということへのこの過剰な意識こそ、現在書かれている文章の大半を覆っている奇妙なやましさを帯びた表情なのであり、しかも、と薄弱な理由でそこになお書き加えようという盲目的な動機によってそのやましさは彩られている。この「しかし」によってはさまれる前後の段落には、驚くほど対話がなく寒々とした乖離だけがある。そこには、あのモダン、近代精神の、真理でさえあればすでに書かれていようとも書かれる価値がある、けだし言葉は言われている内容によって意味を与えられるのだから、という確固とした確信の表情はなく、かといって、プレモダン、とくに中世的な、反復と変奏の快楽への志向もない。いずれ理念的なものに過ぎないとはいえ、中世においては真理へ一致する唯一の言語表現への近代的志向よりも、複数の言語表現が微妙にずれつつそれらが「その処を得る」体系を為すことによって相互に補足し連関しあい、全体として唯一の真理をあらわすと考えられていた。ところで現在書かれつつある文章たちのまさに被虐的な表情はいったい何を意味しているのか。そこには書き手の側の自己のオリジナリティに対するやけくそぎみの信頼と、他方でつねにすでにそれが書かれていることがありうるという脅かす意識との、相互に乖離したままの共存があり、書くことの目的はもはや対象の側から引き離されているにもかかわらず、感性というあいまいな用語が指す希少性を盾に取るほかない。しかもそのオリジナリティに対する信頼はもはやただの相対的希少さの意識でしかなく、けっして、唯一性の意識ではない。いってみれば書かれる動機は素朴な表現欲とそれを正当化する相対的希少さの意識にまで縮減されている。書き手は真理の唯一の保有者として振る舞うこと(「みなさんはごぞんじないだろうが本当は……云々」)も、真実をあらわす見事な表現の演出家として振る舞うこと(「いいかえればそれはあたかも……云々」)も、まったく不可能なまま、「見解」を真理を表現するためでも、それが見事な表現であるためでもなく、ただ相対的に希少であるに過ぎない自己を表現するものとして、(「お気に召すかどうか分かりませんが、このわたしはこういう見解をもっているんです……云々」)、どこか未練げに書き続ける。いわゆる教養や読書量や特殊な環境が、その相対的希少性の、あたかも量的基準のように機能する。だがこれがモダン以後の書き手の必然的な、小林ふうの物言いをすれば運命などであるのだろうか? じつをいえば、そんなことはまったくない。
 このような、すべてはすでに書かれているにも関わらずわたしが書くのはまだあなたが見ていない程度にはわたしの書くこと、あるいはわたしは目新しいでしょうし、なにしろわたしがその程度には目新しいということを読まれることで確認しないとわたしもやってられませんからね、という意識が生み出されてしまうのは、文章の中の言葉が孤立していて、意味はその文面だけによって決定されるというふうに考えられているからだ。これは言葉の外部の話ではない。言葉の意味は、その文章の文面だけから決まっているのではない。もちろん書き手の意図によってでもないし、かといって言葉の示す現実の対象だけによって、というわけでもない。わたしが或る石について或る文章の中で言及する。その文章の意味は、わたしがどういう石を想定したかによっても、その石が現実にはどのようであるかによっても、その文章がどういう言語形式、文面であるかによっても、決定できない。もうひとつ重要なファクターがあるのであって、この要素の欠如が、言葉があたかも堆積していって語るべき余白がないかのような奇妙な印象をつくりあげてしまうのである。もったいぶる必要はない。言葉の意味は、別の言葉によっても左右される。
 必然的に、同一のことをいうことなど、原理的に出来ないのである。一度いわれた、バカと、二度目にいわれたバカは、どうしたって別の意味を持たざるを得ない。わたしたちは或る文章に、素の状態で出会いはしない。別の文章の影響下に読む。重要なのは希少性でも自己表現でもない。その言葉が、それまで書かれたことの総体と、どう向き合っているかである。独自性や希少性は、いってみればきりはなしたうえで、文章同志をくらべたときに浮かび上がる属性である。しかし、重要なのは、その二つの文章を、じかに対話させ、一方の言葉が、他方の言葉の意味を、どのように変えてしまうかが、問題なのである。すでに自分の言葉がいわれていたとしても、それは別の関係の中で書かれた言葉であり、その言葉をあらたな関係の中にいれただけでも、それはひとつの出来事である。だがそれだけにとどまれば、たしかに退屈でさえありうるだろう。反復、付和雷同、同工異曲の文章がありえないなどということではなく、そうしたものが書かれる原因は別の処にあり、それはすでにすべてがいわれているせいでも、わたしが月並みな特徴しかもっていないからでもない。そうではなく、退屈さは、じつのところ、踏み込みの決定的なあまさに由来する。もはやほとんどそういう論旨になれば必然的にそういう疑問がうまれざるをえない、という点まできているのに、退屈な文章はその言葉の危機、懐疑、大前提を覆すような疑問を素通りしてしまう。そしてふたたびはじめからそこまでを繰り返し、またその点まで来ると迂回してしまう。退屈さとは、読み手がおそらく、書き手は本当は重大なことは問う気がないのだ、と気がつくということではないだろうか。どんな文章でも、時が経てば、あたらしく言われたことと、あたらしく起きたことによって、事後に問い直され、意味を変えてしまう。そして、無数の亀裂と空白、危機と矛盾を露呈する。その縫い目を破る、ということを伴って、あたらしく言葉は語られるはずである。問題なのは、すでに自分の中に書き込まれてしまっている言葉との対決であって、しかもその対決の根拠にべつに、個人としての自己の特異性やいわゆる教養などというものを持ち出す必要はないのである。

00/10/10