他者と投影/いきられた独我論の気色悪さ
他者を認めると言うことは、自分の存在が他者にとって本質的に無関係であるということを認めると言うことです。(このことに道徳的価値付けをする必要はありません。他者の絶対的な自己からの独立性の承認は、たんにそれが事実だから必要であり要請されるのであって、立派なことなどではありません。ましてや残念がったり嘆く必要も逆に称揚する必要もない)ところが、哲学で言えば独我論ということになるような誤った、というより気色悪い考え方のあまり、そのことを認めない人々がいる。つまり、他者は、わたしに対する現れとしてしか存在しない、あるいは、だから、他者認識は自己認識だ、というような感覚、志向です。つまり、世界をなりたたせているのは、このわたしの主観なのだ、という自己=中心的で、観念的な思考へとつきつめれば至るのです。
ある人々にとっては、客観というものが信用できないあまり、ひとつの誠実さの結果として、このような独我論としての懐疑にいたることはありえます。しかしもしそのような誠実さが問題である限りでは、この独我論はすでに信じられてはいないのだ、といっていいのではないかと思います。なぜなら、他者がいなければ、モラルも、誠実さもないからです。モラルとは、他者との公正なむきあいということにつきるのではないでしょうか。他者は、わたしに対する他者のあらわれではないし、ましてやそれを統合してわたしがうみだす他者イメージと同一でもありません。他者とは、わたしとはかかわりなく、わたしがいなくても存在するものであり、わたしが原理的に把握しきれない、そしてまさに本質的にはわたしの認識から漏れていくものとして存在するものです。
このような独我論的錯誤がうまれるのは、理論的認識のレベルでは、他者の現れを他者とみなしているからです。他者の現れ、わたしにとっての他者の経験の総合されたものは、他者の像ですが、他者の像はけっして他者と一致しません。だからといってわたしは形而上学的に、それ自体としての、他者の真実としての、他者の本質があって、その表現として他者のあらわれがあるのだ、といっているのではありません。そのようなもの、本当の他者といったものを想定せずとも、他者はわたしにとっての他者のあらわれではない、ということをいうことはできます。
寛容な相対論、みんなそれぞれの考えがあるのだから口を出さないがいいや、という奇妙にいきわたった感情の背後にも、わたしはこの独我論を見ます。他者の言説に対して、それが直接わたしに向けられない限り寛容であり、むしろ無関心であるというのは、じつは自分だけは、問いつつ問い返される自己ではなく、俯瞰する自己になって、一段高いところから、相手の見解を見切ってしまい、全体の中に位置づけようとする、「それならもう知ってる」という傲慢さがあるのです。他者関係のなかに、俯瞰しない対等の個として入り込むことのほかに、いきる場所などありません。他者関係の外部などないのです。傲慢さとはそれをみとめず、観念的に、自己を世界の主宰者のように感じていちだん上から俯瞰することです。俯瞰する寛容さほど、傲慢で不正なものはありません。真の寛容とは、自己を脅かす具体的な、近接した他者への寛容です。優位に立つ相手への、あるいはそう見なした上での、あるいは遠い場所からの寛容は、慈善家的な傲慢さ以外の何者でもない。
他者とは、わたしが絶対に一致できない相手、ということです。そして世界はそういう相手だけからなっています。これはあきらかに恩寵であり祝福です。融合だの完全な相互理解だのは、気色悪い。すくなくともわたしはそう感じます。他者認識とは自己認識であるとか、心の持ちようで世界が変わるとか、そういう主観的な観念論は、世界の全てを自分の内面に取り込んでしまう、不気味で閉ざされた認識です。むしろ自己認識とはすでに他者である自己についての他者認識なのだし、世界のありようで、心の持ちようなど変わるのです。わたしがいっているのは、素朴実在論でも、物質決定論でもありません。たんに、他なるものとの対等なコミュニケーション(対話)によって内面も精神も世界も形成されているのであって、そこに特権的な主体などないということです。
経験されない限り事物はわたしにとって存在しないかもしれませんが、経験をきちんと子細にみつめれば、むしろ事物は、経験的な内容的な同一性を越えることによってそれとして存在していることがわかるはずです。それは、存在していると言うことは自己に決して一致しないということだ、ということです。つまり対象は変化しなければ認識され得ません。しかし変化したのに同一の対象とみなされているということは、そこでつねに概念もイメージも、自己の一貫性をのりこえているからです。同一性が最初にあってそのバリエーションとして存在があるのではありません。差異がはじめにあって、その観念的な像として、同一性があるのです。
いまさら、形而上学批判の文脈では古典的すぎるくらいのことをこと改めて言うのは、理論的なレベルではどうあれ、いきられた、とくに相対主義のかたちをとったこうした他者を認識できない独我論があまりにもなお普遍的にみられるように思えたからです。他者の意見をいったん認めた上で、それを本質的な差異を無視した上で自己の意見にとりこんでしまい、そのようにして「教養」として他者を食べることを有意味だと見なす考え、そこに欠けているのは、他者とは、対話することが出来るだけであって、理解することもとりこむこともできないのだ、という根源的な認識です。かれらにとって対話は、同質的なものがその同質性を発見するために行う、あるいは特権的な「我」が対象でしかない相手をとりこみ理解する過程でしかなく、危機と生成の場としての、真の意味での対話を知らないのです。
他者はわたしの視野の中にはいないのです。ただわたしたちは視野の中には他者の痕跡だけを見いだす。他者経験とは、この、他者の痕跡と他者からの突き放されるずれとの、間、にしかありません。特権的で中立的な他者(神、普遍)のささえによる客観性という概念がゆらいだために、根拠として独我論の確実性に退却する、そのことでしかし他者経験がみうしなわれ、観念的な、他者を自己の対象におとしめ、あるいは早々に不可知として無関心をよそおうような感性が一般化するとしたら、これほど悲惨なことはないと思います。見られる対象としての自己を批判したり、自嘲したり、相対化するひとはたくさんいます。そういうことがむしろはやりでさえあるかのようです。それらは多くはアイロニーの響きを負っていたりします。しかしそれらはけっして危機を経験しているわけではありません。そのように見る自己はけっして批判されず、相対化されないまま温存されているからです。見る自己と見られる自己との分裂をみとめず、その乖離をきちんとみつめてそのうえでこそ、語ることは危機でありうるでしょう。自分を言葉の上でののしることなど、誰にでもできます。しかもそれを率先して自分でやった、という理由で誉められさえするかもしれません。しかし問題なのは、いかにして現実にこちらの事情などに関心のないそして利害が対立さえしている具体的他者に対して、公正にふるまうことができるかということなのです。たとえば自分が愚かであることを過剰に卑下するのもあきらかに傲慢さのうらがえしです。なぜなら、わたしがどのような人物であるかということが他者や世界にとって重大であり関心の的であると考えているからです。そしてこの認識を自虐的にのべるようなことはまったく無意味だし、そのような感性こそ、わたしはここで独我論とよびつづけているのです。わたしが他者に対して意味があったとしたらそれはわたしが贈ることが出来る何かを具体的かつ客観的にもっていたときだけであり、わたしが、わたしにとっての自分であるからではない、というのは単なる当たり前のことです。そしてそのことはことさらに口にするようなことではなく、だから逆に言えば、それをことさらに立派なことや英雄的な事業のようにいうことこそ、わたしの苦労が、わたしの他者に対する価値付けになるといった傲慢さのあかしなのです。
他者に自己を投影し、他者の自己像に他者自身の自己イメージしか見ないひとには、他者経験そのものがないのです。
00/10/12