ジェンダー/ナショナリティ、言葉、記憶、自己

 誰もが本質的には雑種的な、混血した存在なのです。混淆した、無数のアイデンティティの決定的にせめぎあう場所として、「わたし」はある。ぼくのなかには無数の言葉と、記憶と、身振りと、声と、歌とが、それぞれにぼくを成り立たせながらたがいに対話し、せめぎあい、きしみながら、まぐわいあっている。ぼくの話す言葉はぼくに話された、ぼくが聞いたすべての言葉と、それらにまつわる情動と、記憶、状況の反響としてある。だからぼくの言葉は純粋な日本語ではありえない。純粋な**語などどこにもありえないのです。同じ言葉を話しているなどというのは、ただ話が通じるということであって、しかし、全面的に話が通じるということも、全面的に通じないと言うこともありえない。「国語」が異なってもそうだ。国語というのはひとつの政治的規範でしかなく、言語の差異というのはほんらい連続的で混淆していて雑種的なもので、ここからさきは何語、などというものではない。「日本語」と日本語以外の通じなさ、を保証しているかのように見えるのは、政治的な国境と、地理的な隔離にすぎない。しかもなお、言語はその境界線上においてたえず混淆し、あらたにうまれ、交雑し、変貌し続ける。純粋であることに価値を認めるのは観念的な偏見でしかないのです。
 ラテン・アメリカの文学を読んでいていつも痛切に感じさせられるのは、ひとつの言語、ひとつの言い回し、ときにはひとつの語をさえ、選ぶと言うことが、ひとつの政治的選択、関係においての身のこなし、愛や、憎悪や想いなどとしてあらわれるということです。そしてなお、自分の中には複数のカルチャーの、エスニシティの記憶がうめこまれ、自分の**性を否定して**性だけを肯定して純粋になろうという志向は、つねに、痛苦に充ちたアイデンティティの葛藤として意識を混乱へとみちびく。「日本人」という国籍と人種と生活文化と言語をパックにして、それらがかならず一致するし、一致するのが「普通」だというフィクションの内部で考えている限り、そうした生身のアイデンティティの問題を理解することは出来ないでしょう。そして、たとえ、この一致したアイデンティティというフィクションに無理なく同一化できる人々もまた、本当は自己の中にある複数さ、多様さを抑圧しているからそうなのです。
 「国」が与えてくれる(文化的、政治的に安定した国民国家が、ということですが)、お仕着せのアイデンティティ、たとえば、「日本人」なら「みそ汁、お米、梅干し」というイデオロギーや、「曖昧で繊細、模倣にたける」といったイデオロギー、あるいは「緑豊かで森と海を大事にする」といったイデオロギー、そして、「大和魂、武士道、大和撫子」といった古風なイデオロギー、こうしたものは、じつに二重の性格をもっているがゆえに、抑圧的なものだとは気づかれません。お仕着せは、それを着ることが苦痛ではない人にとっては、それがお仕着せであることを忘れることが出来るものなのです。日本国家のマジョリティは、こうしたイデオロギーどおりに、感じさえするでしょう。実際に、海外でみそ汁がなつかしくなったりすることがありえます。しかし、だからこれらの認識がイデオロギーではなく真実だと考えるのは間違いです。このようなイデオロギーがあるからこそ、彼らはそう感じるのであって、その逆ではありません。イデオロギーはわたしたちを教育し、それがお仕着せのアイデンティティであることを、感覚のレベルではけっして見えないようにすることが出来るのです。
 個としてのわたしたちは無数の記憶をいきてきたのです。母語が特権的なのは、それがわたしが育つ過程で、「自分」ということを発見するためにわたしによって生きられた言葉であるからにすぎません。そしてこのとき、母語というのは、日本語とかそう言った意味での「国語」「言語」ではありません。あくまでもだれかわたしに幼い頃話しかけた誰かの言葉、個人的な色彩を帯び、けっして純粋に、あるいは規範的に**語とよびえないような言葉なのです。だからこそ、複数の言語のはざまでそだったひとは、まさにそのような母-たち-の-語を持つでしょうし、それが単一性をもつ必要などありません。個としていきようとするということは、抽象的な個人として、自分の文化的背景から抜けだし、根無し草の普遍主義者になることではありません。むしろ、ひとつの民族的なアイデンティティ(それもまた政治的なものだ)などに制約されない、わたしという混淆した複数のアイデンティティを肯定すると言うことです。
 個であるということは、まさにそうしたお仕着せのアイデンティティの単一性という抑圧を否定し、自分を成り立たせ、いまも生成しつつある自己という出来事の雑種性のなかで、せめぎあう複数性をいきぬくということだと思うのです。わたしたちが他者をはげしく嫌悪するとき、そうした自己の中で抑圧していることを他者に投影しているからということも多いのです。しかし、なぜ、私を成り立たせる複数のアイデンティティを、抑圧し、単一なものにならねばならないのでしょうか。それは、わたしがすべてをやりたいほうだいにするということではありません。わたしの複数性を肯定すると言うことは、わたしのなかの、あることをしたい欲望と同時に、それをしたくない欲望や意志をも肯定すると言うことです。問題なのは、この矛盾をぎりぎりまで自己の中でごまかさずに、決着をつけようと努力すること、内的対話を、葛藤を忌避しないということであって、そのうえであることを選ぶ、ということと、はなから抑圧してしまうのとは、まったく違うことです。(ちなみにぼくは「堕落論」の意図はこういうことだったのだとおもう)
 たとえば、誰だって、複数のジェンダーをもっているのです。そして複数のセクシュアリティさえも。わたしたちの多くは、ただ、ひとつの実在しない規範にむけて、それにあわない自己の属性を抑圧しているに過ぎない。同性をいいなとおもったり欲望を感じる瞬間だってあるにきまってるし、そのことに対する嫌悪だってあるにきまってるし、両方あるに決まってるのです。問題なのは個々の場合に、それらを外的な道徳規範や、内面に書き込まれた、「感覚」というイデオロギーによって、画一化してしまうことにあるのです。こどもはすべて多形倒錯であるといいます。そしてこのような多数性、混血性は、ただわたしの内部に終始する「わたし」の分裂というだけのことではありません。もしそうだとしたら、結局、「わたし」という一貫性は保たれているのだ、ということになるでしょう。しかし、わたしであるということは、まさに複数のものの交点である、ということなのです。わたしは思い出す、わたしは歌う、しかしだれが想いだし、だれが歌うのでしょうか。わたしとはわたしに到来する無数の声や記憶や身振りや感触や言葉の、愛や憎悪や意志や挫折や理想や、ありとあらゆる複数のものの、せめぎあう対話「として」しかないのです。しかしまた同時にこれまでのわたしも、そしてわたしが交わした誓いの言葉もまた、わたしに戻ってきて到来し、それゆえに、つねにまったくあらたなわたしがいる、連続性はない、ということにはなりません。ただ、同一にとどまることなどできないし、しかもそれはほんらい「わたし」であるということは、到来するものたちのせめぎあいとしてしかないのだから、ということです。だからこそ、こうした対話をあたかも外部を排除して内面からやってくる変化(たとえば「成長」といったもの)にだけ帰してしまって自他を不当に孤立させたり、外的「影響」を二次的なものとしたり、特定の属性だけを「本質」としてよりわけてそれに固執しそれ以外を抑圧するなどと言うのは、きわめて、不正なことなのです。そしてこのような対話の肯定こそ、異質なものへのむきあいの前提になるのではないでしょうか。

00/10/13