読むこと、書くこと、ルール、野暮であるべきだということ

 ネットは知識主義の社会だといえるとおもう。知っているということが優越として扱われる。しかし、ぼくはこういう知識主義は愚劣だとおもう。なにかを知っているということは、なにかをするために必要な能力をもっているということ以上でも以下でもない。知識は価値ではないのだ。このことはいくら強調してもしすぎるということはない。聡明さと知識とはまったく別のことであり、知識があったほうが聡明さに近づけるだろうというのだって気のせいだ。
 あることが間違っているとすれば、それは客観的にそれが不正だからである。それを禁じるルールを破ったからではない。ルールと正義は一致することもあるが、多くは一致しない。ルールはそれをまもったほうがいいという理由があるかぎりでまもられるべきなのだし、その理由がなくなれば守られるべきではない。正義は道徳というルールのことではない。正義は個人が、個人的に、個々の場合に、みずからそれを引き受けるかどうか問うということだ。掟は決定の理由にはなりえない。なぜならつねに、最後に、で、そういう道徳をわたしは認めるのか、という問いが控えているからだ。
 掟を弁えぬものは、掟を弁えぬということだけを理由に裁かれるべきではない。まず、その掟を知ろうとすべきだったか、その掟を守ろうとすべきだったか、その掟を知り得たかどうかが、いちいち状況によってあらためて問われなければならない。ゴルディアスの結び目を断ち切ったアレクサンダーのように、ルールが想定しない、しかし合理的な解決はつねにいくらでもある。
 「わたしのテキストはこういうふうなつもりでこういう仕掛けで書いたのだから、その仕掛けにはまったり、逆にその意図を読みとれなかったほうが愚かなのだ」という論理がなぜ愚劣なのだろうか。それは、まさにそのようなつもりで書こうが書くまいが、そのような「かたち」を客観的につくらなければ、「本人が言い張ってるだけ」ということになるからだ。誤読ということはおきる。しかしそのとき、書き手もまた、読み手とまったく同じ資格で、テキストの具体的で客観的な「かたち」を論拠としてあかしをたてねばならない。それゆえここでは誤読とは書き手の意図を読み損なうことではなく、テキストの意味を読み損なうことである。この両者はまったく違う。
 (注記しておくと、フロイト/ニーチェ的な読み込みというのは、書かれていないことを書かれていることの想定された無意識敵意図から憶測するということではない。このような一般的誤解によって、かれらが下司の勘ぐりの正当化に使われているのは無惨なことだ。フロイト/ニーチェ的な読解は、書き込まれているテキストの意識されなかった意図/目的を読むということである。たとえば禁欲主義的言明が、ルサンチマンを孕んでいるというニーチェの読みは、禁欲主義がじつは言葉の背後ではルサンチマン的な意図をもっている、ということではない。そうではなく、禁欲主義的な言明は、ルサンチマン的な言明である、ということなのであって、テキストの背後が深読みされているわけではない。あくまでも、書かれている限りのことが問題なのである。このような読みが正当かどうかは、当然、その言明の実際の機能の仕方によって、反証されうる。それに対して、下司の勘ぐりは反証可能性を持たないが故に、不正である)
 そしてまた、愚劣なことをわざと「あえて」書いたからといってそれが愚劣でなくなるわけはない。意識的であり、知識を持っている側が優位であり、主体としてふるまう。このような概念こそ男根的な形而上学そのものなのだ。この「あえて」の論理ほど卑劣な自己弁護に役立っているものはない。「あえて」したのだということをいいさえすれば、免罪されしかも真に受けた側を野暮なおっちょこちょいとして嘲弄することさえできる権利をもつと考えるということ、このおごりに充ちた了解こそ批判されねばならない。たとえばそれがフィクションとして書かれたが故に免罪されるという論理を展開するためには、まさにその文章が、客観的に、わたしはフィクションとして読まれるべきであるというサインをかたちとして明白にもっていなければならない。
 このような読みの態度は「あえて」の論理と同根のものなのであって、まともに同じ土俵で論理と言葉の客観的形式を根拠に争うことからの逃避なのである。おなじような逃避として、言葉ではいえないけど、本当は違うんだし、そのことをわたしは知っている、という論理である。これもまともな対話の拒否であって、なるほど表現の能力を越えることは実在するだろう。しかし、ではあなたはなぜそれを信じているのか、ということは言葉で言える筈である。論拠を示すことができないなら、他者を説得しようとすべきではない。なぜなら、論理以外で他者を説得しようという行為は、たとえそれがあとで実際に真実だったとわかる場合でも、不正な権力的行為だからである。目的や結果が、手段を正当化することなど、けっしてありえない。

00/10/15