教育、奉仕、隷属

 森首相の諮問機関とか、文部省が、奉仕活動とか道徳教育の強化とか世迷い言をまた言い出している。
 道徳を掟として理解し、掟を仕込むのが教育だというのは、モラルに反するのではないか、そもそも。

 倫理の基本は、自分で考え、他に隷属しないということだ。
 道徳という掟をそれが既成道徳であるという理由で信じ込むというのは、無責任なことである。調教の一種として道徳教育を理解しているひとたちは、非倫理的な態度を道徳の名に於いておしえているのだ。隷属から倫理がうまれることは、ない。

 そもそも学校改革をいくらがんばってやったってそんなことに意味があるのだろうか。このまえ管直人が国会で、不登校を登校させることだけではなくはばひろい解決策をみたいなことを言ったら、文部省の官僚は、学校を否定するような発言は感心しない、よい学校をつくることが必要なのだと、傲慢な態度でいっていた。しかし、そもそも学校にいく必要などあるのか?

 必要なのは教育であって学校ではない。市民としての最低限の知識と、職業生活の資本としての知識技術がみにつけばいいのであって、それを学校という制度で実現する必要などどこにもないのである。まして、中央集権的な公立学校が、教育の中心であるべきだなどという傲慢と無知はどこからくるのだろうか。

 家庭教師でも、塾でも、その他どんな形式でもなんら問題はない。国家が学校という制度に固執しているのは、それが、画一的で社会にたいして都合のいい存在をつくりあげる制度として機能しているからだ。学校といういかにも形式的に監獄や病院に似た制度が、内容においても類似性をもたないとだれにいえるだろうか。学力レベルについては、大検みたいなテストを統一ですればすむはなしで、もちろん、政治教育や宗教教育が、判断力の付く前に行われるのは問題があるが、そのことがかならずしも統一的な学校制度を絶対化する理由にはならないだろう。

 教育を国民らしい国民の再生産の場にすることはゆるされないとおもう。

00/10/16