融け合うこと、皮膚、そしていつか見た幻を

 触れる。この触れあうことのいとおしさ。近づけば近づくほどにいとしさはまし、障壁をにくむ。
 けれど、錯誤が……この溶け合うことへの願いは錯誤ではない。何が錯誤だったのだろう?
 皮膚と皮膚が触れ合う。触れあうことこそ、いとしさの核心だ、と心から、感じていた。
 だから、この皮膚を越えて、と。近さの極限としての融合へと。

 触れる。けれど、ぼくが愛したのは手触りだった筈だ。手触りは、触れることへの逆らいなのだった。
 ならば? 溶け合うことで喪われるのは、触れることそのものだ。わたしはわたしに触れられない。
 名もなき祈りの名によって、ひとはどういうわけか、疎遠な敵しか愛することは出来ないのだ。

 何ということだろう!

 ジョルジュ・バタイユは言う。

 単細胞生物にとって、融合と孤独、愛と分離はひとつだ。ひとがエロティシズムを、至高の融合を願うのは、そのことを知っているからだ。フランス語でオーガズムは小さな死と呼ばれる。単細胞生物が分裂して殖えるとき、最初の細胞は死ぬ。だが、死のさなか、まさにただなかで、分裂しようとしながらいまだ繋がっている二つのあらたな細胞たちは、孤独な人間たちがあこがれてやまない、その溶け合いのなかにある。それは誕生であり、同時に、死だ。だが、その特権的瞬間を越えてしまえば、そしてそれ以前にも、ただ、孤独な一つの、あるいは二つの細胞があるだけだ。だから、融合はひとつのヴィジョン、死と愛の幻想なのだ。

 わたしはわたしであることから逃れたいと願いながらわたしということを愛していて、その矛盾に引き裂かれ、孤独の中で他者を求めるのかもしれないけれど、それで、そのことに解決などあるのだろうか。

 正直いうと、……知るかよ、そんなこと!

 Yes! Ok,Let's going on!
 Thank you.This is reported by the fool on the hill.

00/10/19