花盛りの喩えが踊る



1999/08/05



文章ってたいていの場合、喩えというか、
対象になるものを何に見立てるか決まれば、
或る程度、書けてしまう側面があるんですね。
でも、これはじつはおかしい。
そういうものは感性だったり批評だったりといわれるのだけれど
考えてみると、つまり文学の流儀で意味より字面のレベルで見ると
結局、見立てて、それを一貫しておしとおしてるだけじゃん
そういえちゃうわけです。
現実なんてそんなに一貫してるもんか。
気の利いた比喩って、小説的には評価できない、悪い意味でただの
「文章」でしかなかったりする。
筋書きのレベルでの「象徴」とか「見立て」とかも
自己完結したたとえは
じゃあなんでまわりくどい表現するんだ、馬鹿。
という感想をいだかせずにはおかない。

インターネットと現実との関係も比喩に似ている。 
花盛りの喩えの花が咲き誇ってまことに盛況かな、と思うのだが
喩えることでふたつのものが結婚してしまった責任はだれがとるのか。
離婚はむずかしいのだぜ。
それにたとえなんてゼロからやってくるものではなくて、
たいていこれは伝染性のやまいだ。
器官と器官の癒着はいいことばかりじゃない。
とりつくものは恐いよ。いたこです。
いきているもののことは幽霊にたよらず解決したいじゃありませんか。
そういうこと
たぶん、電線には花が咲きやすい。
ひとつにはみんな頭がいいからだ。
しかしこの花が脳髄にうつり、うちがわから食い荒らさないという保障はない。
はなさかじいさん、灰は何を燃やしてつくった?

蛍のような雪というとき、見えているのは
蛍でも雪でもない
蛍のような雪という造形された混血児のはずだ
イメージとイメージの結婚だけではなく
できれば、そのさきにある現実を捉えたい
つまりは幻実を見いださなくてはならないということだろうか?
 
と、投げやりにエンド