反世界のイメージ



1999/08/11



小説にははじめと終わりがあり
物語はその間のことでしかない
そういう精確な限定をつけられている
ということは、基本的には
物語は境界でまわりを囲まれた小世界なのです
(ただしネットは個人制作や物語の有限性といった
限定をリンクによってつきやぶる可能性を持つかもしれない)
じゃあ、語ることは箱庭を作ることなのだろうか
言葉による世界と、現実との関係はむずかしい。

フィクションが現実には存在しないものについてかたることなら
現実と虚構はどんなふうにすれば関係できるのだろうか

ふつう、なにか抽象的な、現実と虚構とに共通するもの(「普遍」? とか)を
虚構の方がより明晰に表現できるから、そのようにして関係するとか
虚構を読んだときの読者の「感動」や「楽しさ」あるいは「成長」という
経験をつうじて関係するとかいわれる

でもそういったことは要するにふるびた既成の回答だ
20世紀も終わろうとしているのにそんなことで安心していられるものか

反世界のイメージは、箱庭とはかぎらない。言葉で作られる世界は
言葉で出来ていて、現実の中に言葉の一部として実在するし機能する
だが、フィクションはどこまでいってもフィクションでしかない

現実からいったん独立してきれてしまったフィクションの世界は
一貫して、ひとつの理屈やイメージで統一されることもあるし
そうでないこともある
そうではないとき、ばらばらなときには、反世界は、世界としての意味を
犠牲にして、世界のすきま、言葉の隙間に現実をあらわにしようとする
たえず変貌することによって、背後を想像させるのだとおもう
ほかにもやりかたはいくつもある
統一するときには、語り手を通じて、語り手にそういうフィクションとして
見える現実とは実際にはどうなのだろうと想像させる
こともあるが、考えてみればこれもフィクションのうちがわだ
このとき何が起きているのだろうか、わたしには分からない

たしかにわたしはおおくの場合、シミュレーションとして考えていた
しかし、一方で、考える前から、わたしの内部に物語や人物や会話や映像が
すでにあったという感覚、つくっているのではなく描写しているのだという
そういう感覚も拭いがたくある

一方では結局、自分の心理の内側のドラマを
表現しているに過ぎず、他者と、同じ問題を抱えてでも居ない限り
関係できないのではないかとも疑う

集合的無意識などという都合のいいものは信じられない

ひとつの物語をかたることがひとつの世界をつくることかどうかも
じつはさだかではない、世界をつくるということは中心をつくることだが
しかし、その中心とは何か

小説は物だ。だから解釈を指定できない。しかし
解釈を指定できないなら、読者にとっても作者にとっても
出会いは完全な偶然になる
それでは作り手は、なにをめざして努力するのか
なにか、ともかく、確かに伝達可能なものがあると考えたい
これはしかしつくりての小さな祈りにすぎないかもしれない
思うに、確実に渡せるのは「かたち」なのだ

しかし、意味が定まっていない、「かたち」のそれじたいとしての
価値といっても何なのかよくわからない

美? でもそれは何だ?

或る形をした文章や物語の、それが意味することからいちおう独立した意味。
わけがわからない文章です。

どう解釈されようと、言葉はそれとしてそれなりによいのとわるいのがあること
それは実際にはあきらかなのだが、それはどういうことなのか
しかも、そのとき、解釈の仕方には関係ないのだが、この「よさ」は
たしかに意味とはそんなに無関係ではないのです

だって、音の響きや文字の形のうつくしさとはやっぱり別なのだから。

そのような言葉を発する声、人格との関係が問題なのだろうか。
しかし、これはなにか錯乱している。
だって、人格なんて、むしろそのひとの言葉からつくられる
フィクションなのだから、問いと答えが循環している

想像すること、そして想像させる機会として
ものとしての言葉をわたすこと
想像することで、まだ見ぬ何かとリアルに出会うこと
そういうことかもしれない

だがこの答えもどこか循環しているような気もする
ともあれ、まとまらない混乱のまま
反世界のイメージが
現実と無理矢理に重ね合わされるときの
てんやわんやを祝って

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