Private Annihilation3:final


 1999年末の現在がいちばん欠いているのは想像力ではないだろうか。それはそれ自身の論理と展開を持ったデフォルメといいかえてもいいと思う。妄想や空想はすべて欠けてはいない。論理的な推論もまた欠けてはいない。だがそれらすべては、決して想像力と同じものではないのだ。妄想や空想はわたしたちの生理や現実にあまりに密着しすぎている。それはほとんど、裏返しにした、現実の単なる表現でしかないかのようだ。それはただ、一対一で、苦痛や幸福に密着して対応するだけで、あらたなフィクションの現実を創造しようとはしない。あるいはこう言い換えてもいい。そこには現実が言葉に変換されるときにおきる魔術的な或る「出来事」が欠けていると。

 論理的な予測や推論、あるいは観念的なモデルから生み出された、体系的な「世界解釈」そういうものもまた、ぼくは想像力とはかかわりがないとおもう。たしかに理知的な配慮や一貫性への意志、明晰さは細部や予測のリアリティを保証するだろうが、それはそれだけのことにすぎない。写実的な絵を描くために科学知識、解剖学的知識をもっていたほうがいいのと同じことだ。

 比喩は飾りでもアクセサリーでも技巧でもない。比喩とは世界を変え作り出すちからなのだと、すくなくともそのための亀裂をあける手段なのだとひとは考えないのだろうか。

 現実を知りたい、それを表現したい、あるいは時代に追いつきたいとするあまり、あるいは文学の有効性をうたぐるあまりアクチュアリティに流し目を送って、たとえば渋谷の若者や、あるいは不登校や自殺間際の少年少女へと視線を向けたところで、そこに、それに向かい合うべき言葉のちからをもたないなら、ただの「風俗」としての文学現象ではないか。なるほど、世紀末の大不況、世界秩序は冷戦後、変貌し、民族主義と宗教コミュニティの問題は間違いなくこれからも露呈していき、政治はますます日常にはいりこみ露出して、おきつつある普遍性の崩壊や暴力性の内破、言葉を失い殆どコミュニケーションのすべも欲求もうしなう子供といったことは「いちだいじ」であるに決まっている。それはもう間違いなくいちだいじだし、そのことを知らん振りして過ぎることなどあるべきようもない。

 だが、ならばこそ、そうした現実を描くことや希望や回答をしめしてみせることが問題なのかと問うてみるべきではないのか。想像力とは現実へただ語るほかに何も持たない存在が向き合うたったひとつのすべではないのか。ふたたび、わたしたちのまわりには、空疎なリアリティだけによって存在を保証されている文学が多すぎるのではないのか。なるほど、語ることは言葉によって、現実を或るやり方でごまかしてしまうこと、うらぎることかもしれない。それはもうそうに決まっている。しかし、そうであるほかないなら、中途半端にそうなることを恐れて忠実めいて現実を描写することが何になるというのか。

 いつだって、どこにだって、言葉は無力だという声と、言葉は政治を機能させる暴力だという声があるし、そこにはいつだって真実がある。しかし、そんなことばにきちんと向き合うだけの言葉への信頼がないくせにどうして書くのか。居直りではなく、ただ、書くこと、そしてそれが具体的な顔をもった誰かに届くというそういう、具体的な現実の中で、言葉はどのように肯定されるのか。

 記憶の薔薇が冬を待たずに枯れる。

 そのことのなかに孕まれた不妊の種子を手の内に握って、わたしは、自分というもののなかにたしかに灯りつつあるひとつの炎を感じないわけにはいかない。それはひとつの大きな物語が終わったという物語のなかで安住していたすべてを焼き尽くして、何も始まらなかったし、何も終わらなかった。しかし、何も続いてすらいない。ただ、終わりつつあるものが始まり、続き得なかったものが夢見られただけだ。平成はあたかも昭和と同じ物であるかのように存続し、戦後とはたいして重要性のない短い期間のように感じ取られ、聖なる儀式が何度も何度も繰り返して危機をパレードのように際立たせる。

 Cruel Fictionを繁殖させるちからとしての、あるいはその絶滅の意志としての、なぜならこの二つは同時に意識的現実から逃れつつ反撃するからだが、想像力こそが必要なのだと思う。

//1999/11/28//