記憶の辺境と月の盲点
内的世界と外的世界の接点で、物語という領域が生成する。虚実皮膜という、あることとないことのあいだに、なにかどちらでもないものがある。それはたとえば記憶の歪曲や、夢の幻想、狂気の妄想に似ている。しかし、あるフィクションが、フィクションとして自立するためには、もうひとつ何かが必要だ。それはたぶん、書き手を表現してしまうということから逃れることだ。たしかに読み手にとっては、書かれた物は、書き手を思わせる物だし、そこに息づかいさえ聴くだろう。しかし、もしそうであれば、それは意味をつくりだしているのではなく、書き手という人格から意味をうけとっているにすぎない。そのとき、書かれたものや、書かれたひとびとの価値は、二次的な物にならないだろうか。
記憶には辺境があって、そこには記憶にない記憶、思いだそうとするときは決して思い出せず、ただ、憶えていたという形でしか思い出せない記憶がある。それはむしろ、記憶の記憶であって、けっしてしっかりと把握することが出来ない。しかし、この場所からしか、物語を織ることが出来ないという側面がまちがいなくある。実際に記憶しているわけではない。しかし、なにか、既視感を感ぜずにいられない。そういう覚えのない記憶の断片だけが、物語を発動させるような気がしている。
記憶はまた、月とも密接につながっていく。月は鏡であり、一方で、盲点でもある。鏡には、うつらないものがひとつだけある。鏡は鏡そのものをうつすことができない。記憶は、記憶された出来事そのものをうつすことはなく、逆に想起するわたしの魂の断片だけをあらわにする。記憶の盲点と同様に、月をみつめると、月に似たものがわたしのなかにあるような気がしてくる。だがそれは欠けた月だ。月はどこかへのドアであり、そこには読むことのできない文字が書かれている。
//1999/08/24//