何も持ってはいない
何も持ってはいない。借り物ばかりで、それも、切実な動機やなにかがこめられているわけではない。
だから、なぜ、書くのかと問われたとき、小説を書くことの欲望を言い表すことは出来ても、そのまさに内容を書く理由というのは、けっして答えられはしない。そのことは、ひどく、やはり、困ったことだ。自分という物が、ない。
ひどいことで、小説の具体的な中身は、だしでしかないのかと詰問されたらどうしようかと怯えないではない。
けれど、書いてしまえば、それなりに、それは切実なものだった。
自分の立場、というものをはっきりとおしたてて、意外な観点から、対象を見直し、その価値をひっくりかえす。
そういう文章をみるたびに、しらける。自分も、そういう文章を、書きがちだ。
だが、対象というのは、そんなに、わかりきったものだろうか。
本当のことをいえば、だから、物語のかたちをとらないで語ることすべてに、言い切ってしまった得意さを自分で感じて、信用も安心もできない。
結論を出すことを忌避している、ともいえるが、自分の見解という物ができてしまうことが、いやなのだろう。
さして、自分の中でことがはっきりしているわけではないのだ。
見失われてしまう花を定着する。だが、花にとっては、自分がおしげもなく、かけがえもなく消えてしまうことは、別に気になることでも何でもないだろう。ひとは、そのときの自分のいつかうしなわれていく断片を哀惜するのだろうか。ひとが、瞬間の己に愛着するその感傷に、根拠をおくことのあやうさを感じ取りながら、むしろ、花を描くことは、けっして、花をとどめることではないという考えにおもむく。
花は見られたときすでに散っている。散らぬ以前の花は幻だ。いちど、捉ええたものをひとは失うのではない。すでに初めから失っていたものを、失ったのだと気がつくだけだ。言葉が、発せられたときにはもう、その意図から切り離されているように。失われた意味をひとはもとめる。けれど、言葉をはなつとき、ひとは、言葉にいちいち意味をこめたりするだろうか。ひとは言葉を発するので、意味を言葉で包んで発するのではない。
思い出す。あれやこれやのことを。けれど、本当に、それらのできごとは、起きたのだろうか。
むしろ、思い出すとは、記憶を再生させることではなくて、記憶を、つくりだすことではないだろうか。
思い出されない記憶とは、いったい何だろうかというといは、ふかく、暗い問い、謎だ。
花はとどめえない。花をえがくことはそのことをむしろひどく無惨に再確認させる。造花は、花ではなかった。
では、描くことは何者でもないのだろうか。花を描くことと花とはかかわりがないのだろうか。
そうではない。うつくしいのは花ではないのだ。花を取り落とすことがうつくしさなのだ。花は散る。散らぬ以前の花は幻だ。
そして、花の散る、その軌跡の動き、うしなわれていくさまこそが、描くことの出来る何かではないだろうか。
だとすれば、花が狂気にかよい、舞いが、能のように乱れて夢幻をさそうのは、記憶の散乱こそが、花だからなのだろう。
いとしいひとへと花をおくり、おくられた花はいつしか枯れ果ててしかもうしなわれず、惨めな時間の推移のなかで、嘆く。
嘆きはしかし、そのうちに嘆きの意味を忘れ、ただうつくしい吐息へと変容する。
そのようにして、なにももたないわたしは、わたしを見失う。
コンビニでのアルバイト、道ばたの錆びた自転車、立ち枯れの柿の木、砂浜のコンドーム、降りしきる酸性雨、冗談混じりのエイズのうわさ、調子外れのわかればなし、募金箱の持ち逃げ、糞尿がとまらない老女のなげき、涸れていく泉にうかぶビニール、うずたかいコンピューターの残骸、くりかえされるむなしいシュプレヒコール、戦車、地雷の張り巡らされたサッカー場、ネクタイ、気障な説教、あまったれた視聴者のもたれあい、やかれていく本・本・本、木霊する意見、うみだされる提案。
すべてがたえがたく、そして、見失われるかすかな花の香りをひそませている。
ほほえみのほかに、何が残されているだろう。
//1999/08/27//