廃墟をみると、その場にいってみたくてしかたがなくなる。廃墟へ、しかも別にその来歴は知りたくはない。来歴によって廃墟が好きなわけではない。廃墟にはさまざまな痕跡がある。それをさわったり憶測したりするのがたのしい。廃墟にはひとけがないということが一つの原因かもしれない。廃墟はただゆっくりと決められた方向に崩壊して行くだけで、どうなるかわからないところはない。安定している。廃墟には複雑な意味のうしなわれた無数の模様があって、うつくしい。そして、廃墟には草が生い茂っていてほしい。
東京を、目をつぶって、それがアンコールワットのようになっているさまを想像するのがいちじき楽しみだった。逆に、水没した都市を考えることもある。ぼくのなかではこのふたつの想像はつながっている。そして、現実のべつの相では、現にそうなのだと、思ってみる。
廃墟をのぞむのは、廃墟では、ほんらい意味をもっている建物やその他のものが、意味をうしなって、物になっている、そのことがひどく自由に感じられるからかもしれない。それはイメージとしては革命の混乱や、転用という言葉とつながっている。
がらんとした部屋。ちらばるもの。まとまりのない異物、遺物。
心あたたまらない、寒々としたイメージが、安心する。
岡崎京子の「リヴァーズ・エッジ」での死骸を見て落ち着く心理と似ている気もする。それとだけは違う気もしている。
考えてみれば、廃屋にいりびたることに魅せられたのは随分おさないころのことだ。
海岸にも、山中にも、似たような場があった。
廃墟もまた、他界のひとつだったのだろうか。
だが、ともかく、廃墟は、生活の痕跡であり、人間に属している。
それはむしろ、だから、やはり、現実の、廃墟ではない都市の、或る側面に似ているのだ。
そして、ふと、つきはなされた瞬間の目に映る世界に似ている。
それだって、なつかしい物には違いない。
けれど、廃墟は、入り浸る場所ではない。むしろ、何かが始まる場所の筈だ。
それは単に物語の典型にすぎないかもしれないが、重要なことはえてして廃墟で起きる。
廃墟の魅惑は、なにか危険な、おろかしいものがあるような予感に妨げられつつ、いまだにそれを感じ続けている。
だが、案外、廃墟での孤独など、単に、退屈な物かも知れない。
//1999/09/01//