ストレスと戦争と



 明確な敵のいない戦争はいつだって日常の中で継続していて、不意に露呈したり、予感の中で感じられたりする。

 さいきん、ストレス発散という言葉をいろいろな文脈で聞くのはなぜだろう。
 働いているひとのはなしならまだわかるし、或る意味でいつだっておきていることだ。
 未成年という立場に、内攻した暴力という固有のしるしをつけられて、ストレスということばが
 ほとんど誇らしげに語られる。

 ストレスという言葉が氾濫するのは間違いなくあいまいなこの土地の風土に見合っている。
 具体的にはあれやこれやの原因から起き、さまざまな具体的な顔立ち、かたちを持っているはずの
 葛藤がストレスという、自己中心の曖昧で閉鎖的な言葉でしか把握されない。

 母子関係だの、教育の荒廃だの、モラルの低下だの、おろかにさかしげな意見はのべられる。
 しかし、そんなふうに誰が誰に何をされているのかという、やじるしをぬきにした一般論は
 漠然とした情況全体を、漠然と改善すべきだという一般論でしかなく、問いをなしくずしにする役割をはたす。

 あやういのはストレスが発散されるのがよいことだという文脈ができていることだ。
 ストレスは、圧迫として感じない自分を手に入れるか、そらしてうけながすか、実際的に原因を解決するものだろう。
 発散するなんて、おかしなはなしじゃないか。
 なんだか、快楽だとしかおもえない。

 自殺者のはなしをニュースできく。
 こころがこわれる。
 居場所がない。
 心の血が止まらない。

 戦争は続く。

 ストレスがストレス、というかたちで把握されるのは、自分とのかかわりだけ見ているからだ。
 葛藤にはどれも具体的な顔立ちがあり、理由がある。
 その意味でストレスというものがはじめからあるわけではない。

 おおきな、あいまいで、かたちのない不安に似た圧迫が意識をなみだたせるとしても
 曖昧なものを曖昧なままにしていては、むきあうことはできない。

 ふかい、ふかい、水圧の高い水の中で身動きも取れないようにおよぎつづける。
 だからといって、発散したり、死んでしまったり、偶像を信じてしまえば、釣り上げられるのを待つばかりだ。

 終わりなき日常なんて言葉は知らない。流通するスローガン。
 ただ、
 終わりのない内乱を泳ぎ続けているような気がしている。
 こわれてしまうのなら、自分だけの言葉をなにであがなってでも手に入れなければならない。

 //1999/09/02//