Satisfaction

satisfaction i can't get no satisfaction.


 「おっさん」になりたての男というのは半ば演技で、自分の繊細さと甘さとを押しつぶそうとしているところがあるのではないだろうか。
 俗物ぶりや無神経さで、なにかに、自分の若さに騙されたという感覚に復讐しようとする。
 しかし、一方では俗物であり無神経であり意地が悪いと言うことは楽なことでもある。
 だからたやすく演技は演技でなくなる。
 ヒステリーや無理がそこにかくれたかたちであるとすれば、「大人になる」という過程にはたしかにドラマがあるのだろう。

 社会的に責任をとる。他者をおろそかにしない。自分が立っている基盤に自覚的になる。市民としてたつ。
 こうしたことはしかし、いわゆる大人になるということと、必然的な関係は何もない。
 「父」「家長」をモデルにしなければ、社会的にきちんと独立して生きるということを考えられないことが異様なのだ。

 夢想や甘えから裏切られたからといってそうしたものを否定し、もしくはある限られた場所や役割だけで肯定するのは誤っている。
 世界や他者や出来事への感受性というものは、そうしたものから裏切られる可能性にのみ依拠しているからだ。
 繊細さの甘さは、繊細さのなかで、どれだけくるしくとも解決されなければ、破壊されるだけだ。

 理想が現実と一致しない、あるいは一致させられそうにない、からといって理想から逃走したり、あるいは現実を暴力的に理想にあわせるのは悲惨な錯誤だ。日本語はついにいまにいたるまで理想という言葉をきちんと翻訳することが出来ずに、夢想と建前のふたつの意味でしか理解しない。
 理想とは現実をみちびくものでも、否定する物でも、それによって現実をはかるものでもなく、現実にはてしなく問いを、答えではなく問いを投げる物の筈なのである。

 だから、老いへと向けて若やぎ、星へとまなざしを向けよう。
 

 //1999/09/09//