最近、虚偽と実体ということを考えている。そして、仮象と実像をいっきに転換させるような、虚実の転相ということを考えている。
うそということではなくて、本当のリアルなしくみとおもてむきのその架空の表現とがある。そういうときに、これを逆転させる方法はないか。
内容が表現になり、表現が内容になる、螺旋状の真の異常事を出来させること。
ぼくはこんなことを考えていると、自分がほんとうの自閉症になったような気がする。言葉の抽象のあみのめにとらえられ、いまや、愛の言葉ですら、頭の名かでは括弧付きの引用めいたものとして距離がつく。オリジナルをさがすまでもなくあらかじめ偽物になった言葉の惨めさを抱いている。
だが、このような苦痛こそが陳腐であるような現在をどうにかして変相させねばならない。生の場所をつくるためにも。
ぼくには宿題がある。
ひとつは、他に気をつかわせないだけ自立すること。
そしてもうひとつは、虚体という言葉とその可能性をはかること。
もうひとつは、愛する書物のよさをきちんと他者につたえることばを持つことだ。
どれもまだはたせていない。
むすうのものが内側へとこわれていく、そのことの、ひとつの極限として虚構存在があるのだろうか。
あるいは、つねに無限の速さで他へと存在を転送するネットワークとしての世界だろうか。
たえがたい憂鬱と苦痛の時間には、こめかみはいたみ、夢想は侵入者となる。そのとき、容易に立ち去ろうとしない時間のひとつの粒子が、どのようなものかと考えてみれば、それはどこか、幻想的ではあるが、仮象と現象とのあいだに位置するそれのように思える。
転覆はわたしの陰謀なのだ。
//1999/09/21//