螺旋と鏡


 よくよく考えてみれば、管理の必要と言うことをのぞけば、実質的にはひとつのサイトを構成するページ(ファイル)が同じサーバにある必要なんて微塵もないのである。だから、多くのページが、別のページに飛ぶリンクと同一ページ内のリンクを区別しているのは、ヴァーチャルな区別なので、それが物理的ファイルの所在と対応している必要はないので、さらにいえば、index-pageがあって、そこから階層的にリンクするという形式をとる必要もとくにない。

 入り口と出口を特権化する理由がどこかにあるわけではない。

 そういうことを考えていると、たとえば、階層構造のないページとか、複数の人が、ウェブリングのようにして、それぞれのサーバスペースにおいたページをあたかもヴァーチャルにはひとつのサイトのようにしてつないでいく、「書物」というものをおもいつく。これは、チェーンメイルにすこしにているけれど、それとはだいぶ違う。これがほっといても発展していくということを考えると、夢想はかなりひろがるのだが。

 勿論、ある種の便利さや見晴らしの良さというものはある。しかし、それは絶対的な物とはいえないはずだ。
 ついでにいうと、ひとつのページが複数のページに属していけないということもない。
 勿論、著作権という制度の問題はあるが、それは別の話である。

 ところで、reloadせずにリアルタイムで変更を反映できるページのオプションはないものか。
 すると、だいぶ、アイディア的にひろがるのだが。

 アクセス・ランキングを見ると、実用系とアダルト系と並んで、電波系とでもいうべきものが上位に食い込んでいる。この三つが多分、「ふつう」の娯楽の対象というものなのだろう。それにエンターテイメント系や日記・論評系がつづくのだが、こうしたものをみていくと、他者の狂気は、健康的すぎるほど健康な人間の娯楽だということがわかる。こういういいかたをしてはなんだが、東芝事件のような、顧客係とのもめ事などが、それ自身の意味は別として、大きな関心をあつめるのも、物好きの心理というものが働いているに違いない。だから、わるいということをいいたいのではなく、そうした精神の不均衡や、そう見えるものに対する関心は、けっして文学ではないということである。
 

 //1999/09/29//