Cahier

 考えたことの覚え書き。散文の制作との関係でいろいろ考えること。 



 権力とはけっきょく、一般的にいってキャスティング・ボードを握ることで、力のない物が意志を通すということだと思う。
 権という言葉は、もともと秤の重りのことをさした。つまり、権力とは、釣り合いを利用して、その釣り合いを崩すことで、それ自体としては小さな力が大きな結果を招くことだ。また、中国という文脈では「治水」のことだ。治水というのも、水という巨大な力の釣り合いをみちびいて、その流れを変えることなのだ。したがって、一般的に、権力者とは、それ自身が力を持っているわけではない。問題なのは、関係の中での場所なのだ。
 柔道とおなじで、釣り合いを崩すこと、重心を見抜くことが核心なのである。



 想実論。日本文学の課題はたしかに、明治二〇年代に出そろっている面がある。
 表現と現実の関係の問題。書く主体と書かれる現実の関係。短編、人情、風俗の問題。構成、長編、主題の問題。植民地の問題。ドラマ。



 技術的評価というのは理想状態があっての減点式だから、どうしてもじつは実践的ではない。
 ここに効率という見方がはいってくるのは、それが繰り返されうるという場合だけである。しかし、その小説を書くという行為は繰り返せない。勿論、技術論は制作の中でそれなりの場所をもっているが、それはやはり、個別の課題の個別の解決としてであって、いわゆる技術とは、実際の個別の技法を開発する際のヒントとなる、曖昧で一般的なリソースのことなのだ。このとき問題なのは適用ではなく、転用であり、開発であるというべきだろう。問題になるのは、課題の解決であって、量的な効率という概念ではない。
 もたもたしていたりもってまわったりしているのは、一つのことであって、量ではなくひとつの質である。



 下から考えたこと。
 a:漢文、漢字かな文のオブジェクト指向言語(java)との類似性。
 1.パッケージ化。階層化。意味のパック。熟語と文との類似。語、熟語、成語、文の階層。この視点はおそらく重要。
 2.ポータビリティ。漢文読み下しとは、どうみても、ヴァーチャルマシーンでしょう。言語仕様と実装形式は違うということ。アジア漢字文化圏では、漢字はつねに「音訓」に対応するものをもち、OS(言語、国語)にかかわらず、作動している。
 b:小説、ヨーロッパ文学の概念が輸入されたときも、仲介システムが要請されたはず。物語、言語の言語としての「話」のレベルでの、植民地主義的な、官僚組織、インタープリターを考察することが必要だ。それはまず、おそらく、「あらすじ」と「わたし」(心情)という二極がとっかかりとして機能したはずである。「あらすじ」は文学制度をしらなくても理解される。「わたし」(心情)つまり、人物の「感情」いや、感情も情緒もある種の近代的システムだとすれば、ここでいう「感情性」はひっきょう物語素としての人物の、属性のことだ。パラメーターとしての「怒り」や「悲しみ」のことで、かならずしも、「内面性」を意味しない。
 一方では話を要約し、一方では人物を現実の人物のように情態性において理解する。これはまだヨーロッパ文学制度ではないが、異質の、「話」システムの境界面として機能しうる解釈システムである。べつの観点からいえば、「想実論」である。「はなし」を言及対象とのかかわりで規定するか、表現内容との関係で規定するかということである。もっとも、両者の分節は一致するとはかぎらないが。
 しかし、文字はなかったが、説話形式は輸入以前もあった。
 小説形式が、日本固有の説話論的現実の表現として、実践的に機能するためには、なにが作動すべきだったろうか。
 ところで、やはり小説性が、問題的だったのは、なによりも「写実」をめぐっていたはずである。
 となれば、小説形式の日本語における実装とは、
 1。人物(心理)の内面化、近代化、具体的には自意識化の作業。
 2。あらすじから、情景描写の、導出。
 という作業によってなされたとおぼしい。人物(語り手も含め)の、内面性の空間の導出と、情景描写の導出は。たしかに柄谷のえがきだしと一致するが、ここで主眼になるのは、そこでの変換作用である。独白の言語と描写の言語、それをむすびつける文法。
 書き手は、まず、ある説話論的現実に対面する。そして、そこから、独白=描写的現実を、ヨーロッパ文学を読んだことによって形成された目によって見いだす。その個々の要素的現実、あるいはむしろ問いかけとしての「経験」をどのように再構成するか、説話化するかという問いがうまれる。そのとき、やはり、花袋のように西欧文学への見立てが有効になる。これは、まず、「説話論的経験」を「ヨーロッパ小説の要素」として解釈するということである。あたかも、説話論的差異があるにもかかわらず、ヨーロッパの説話論的現実の表現であるヨーロッパ小説の要素に、自己の説話論的経験が、対応するかのようにふるまうこと。具体的には、たとえば、この失恋を、ヨーロッパ小説の中の失恋であるかのように誤認し、そのうえで、この失恋が、ヨーロッパ小説での、失恋のあつかわれかたと同じようにして、日本小説でもあつかわれうるとみなすこと、である。
 どうも、再考の余地がある気がするが、ここではここまで。



 漢文訓読という異様な制度について。(読んだ本のパラフレーズ)
 文字をもたない列島の住民へ、文字が伝来する。意味を伝達しようとして、文字を使う。しかし漢字は、漢字でしかない。漢字が伝えるのは漢字の内容だけである。つまり、漢文だけだ。(これは厳密には漢語ですらない)ここで問題なのは国語的差異ではない。声と文字、より正確には意と文との、記号表現と記号内容とのあいだのいやしがたいずれとしての差延作用による、断絶である。漢文は、漢文としての形式、すなわち、文法を保存しながら、日本語を意味することをしいられる。文単位の対応である。そして、ことはさらに進む。重要なのは、話される日本語に漢文を似せることではない。そうではなく、漢文を実用的にすること、何を意味しているかをはっきりさせることだ。意味を一義的に決定すること、つまり、漢文のままだとのこる多義性を減殺することなのである。平行して、語単位の対応が起きる。個体性が、言語にいちおう関係なく(分節そのものはもちろん言語的だが)存在する以上、ある主の対応付けとしてのラフな語レベルでの翻訳はおきずにはおかない。それが訳ではなく、訓、つまり意味としてとらえらるのは、読むときではなく、書くときに漢字がつかわれるときだ。語レベルの対応と、文レベルの対応が、それぞれ独立に生起して、これを関係づけたいとねがうとき、おそらく漢文訓読が生成するのだろう。そして、音価による翻訳が、文法語の指定のため(これは当初、表記としてよりも指定として感じられたはずだ)はじまる。ここに仮名が生成するのであって、おきていることは、文字として使用するための実際的変改であって、口語に似せるということではない。
 となれば、無意識とは、読みにうちがわからとりつき、それをどの漢字の意味ではなすのか抜きにははなさせず、訓と訓とをむすびつけ、夢作業のように、おきかえ、圧縮し、うつしかえる、漢文の読み下しアーキテクチャーのことだろう。


 小説を書くということから逃げ出すのも没入するのも簡単なことだ。
 小説を書いて、書いただけなら、書いたとすらいえないだろう。
 ある、デザイン、あるいは情景、感覚、不可能とおもわれるある種のしかし仮想の到達点がなければ、そもそも、書いているとすらいえないかのように見える。すくなくとも、理由がわからない。駆り立てるもの、ゆえに突き刺すものがあるはずだ。
 情景を描写する。理由がすぐに問われるだろう。なにもかもに理由がいるなどというのは偏見だ。しかし、理由が事後的にたちあがってすらこないような断片をどうかんがえればいいのか。
 だが、どうでもいいものがどうでもいいものとしておかれているとき、読み手が味わう安堵の念もたしかにある。
 そこには書き手の妄執が、理由がないからだ。この隙間やラフさも重要なファクターだろう。
 はじまりとおわりをおけば、時間は厳密には無化される。
 体系を、筋書きがもつとき、そこでは、優位に立つのは、時間ではなく、前後だからだ。
 書く時間の生育のリアルを、読まれる時間のなかに維持することは、困難のなかでもかなり上位に位置する。
 ともかく、まとまりをどのように補償すべきだろうか。


 恋愛小説なんか可能なのか?
 現実の中での恋愛という事象の位置を測定すること。他者関係の原型的状況そういうふうにいうことも出来はする。しかし恋愛の掟もそこで働く問題の構造もさまざまだろう。
 結局、恋愛を書くことがジャンルを確定するわけではない。問題なのは扱いだ。または重点。
 二者関係をえがくときに、恋愛という政治的で伝統的な形式のバイアスをどう導入するか。
 それはつまり、「ひと」をどういうふうに恋愛主体として構成するかということ。
 終結点、真理、目的としての肉体関係。掟。
 勿論、そこで典型的に二人称関係のあらゆる不安が露呈することは疑えない。
 しかし、それは恋愛として一般化できるのだろうか。また別の問題、身体的会話としての恋愛と精神的理念としての恋愛の二重会話という意味での、技法的な意味。要するに下世話な意識と無意識の差異からくる事柄。
 おそらく、凡庸なハッピーエンドも、心中も、ともに、恋愛=結婚のイデオロギーを強めるに過ぎない。
 だが、ひとはどのようにして恋する=男、恋する=女に「なる」のか? その化学への興味。


 雨が降ると世界が湿る。下降する線が身体を支配する。この重力の線と水との関係を考えているといやおうなく死のことを考える。しかし水と沈黙はむすびつくようにみえるのに、雨と沈黙はどこかそぐわない。雨にはささやきがともなう。これは通俗か。ともかくそう見える。なぜか。突然の言葉の破裂。


 暴力と聖性が主題になっていることが多い。しかし、暴力はもっと、むきだしで軽いのではないか。もっと味気ない物のはずだし、身体のウエットさが世界の砂漠に対抗できるものだろうか。ロマンチックすぎる気がする。一方では、スタイリッシュな芸術、空虚への情熱、透谷的なものへの、あるいは鴎外、はたは三島、そして、バタイユか。根は、同じだ。結局、供犠的な小説が多いのだが、そのことはある種の狭隘さを意味してるようだ。 勿論、透谷も、鴎外も、三島も、それぞれに違う。特に透谷は異質だ。かれは浪漫を言いながら、或る、亀裂を正面切って生きているから。それにくらべれば、神話を再演しようと欲するのは、やはり、なにか、素朴ではないか?