最後の春に 柏屋勇

 

 苦しいのは胸に水が溜まっているからだ。
 身を起こして窓の外を眺めれば桜が見えるはずだった。いやもう散ってしまっ
たろうか。昨日の夜は雨が激しかった。僕は一人でベッドに横たわっていること
しかできない。見飽きた病室の天井の黄色い染み。
 耳を澄ますとかすかに聞こえる音がある。胸の奥に響く、ささやくような水音。
魚の跳ねる音。
 今日は晴れたようだ。窓から見えるのは雲ひとつない青い空の色だけだった。
 空?ちがう。あれは、水の色だ。

 ―――これが背骨ですから、この影が心臓、お分かりですね。こう、これが肺
です。肺の中に、ちょっと気になる影があるんですね。
 医者はX線写真を示しながら慣れた口調で説明した。僕は一人でそれを聞いた。
 言われてみれば、心臓よりも少し明るく映った肺野の中に、不明瞭な楕円の影
があるのが分かる。
 ――― もう少し詳しく検査してみましょう。
 病名は、なかなかはっきりしなかった。
 肺に映る影は、写真を撮るたび移動し、形も大きさも変わった。ただ消えるこ
とだけは決してなかった。
 そのうちに肺に水が溜まりだしてどうにもならなくなると、僕は酸素吸入器と
病院の部屋をあてがわれた。

 彼女がもういないなんて信じられない。だってそれは本当のことじゃないんだ。
不幸な事故なんて、そうそう起こっていいものじゃない。
 少しだけ、お酒を飲んでいた。助手席には彼女がいた。海沿いの道だった。
 タイヤが滑って車体が傾ぎ、暗い水目掛けて落下した。どうやって車から出た
のかは覚えていない。
 翌日、空の車だけが引き上げられた。
 たとえあれが、本当にあったことだとしても。
 彼女は、水の底で待っているんだ。

 治療の見込みは手術だけだと医者は言った。
 僕は手術を拒んだ。
 最初に写真を見た時から、胸の中にいるものが何か僕には分かっていた。
 海の底に棲み、冷たい水と一緒に僕の胸の中に滑り込んだ一匹の魚。一人と思
っていた日々の間、魚は密やかに成長しながら僕と共にあったのだ。
 水が肺を浸して呼吸もままならず、魚が僕の肺胞を食いちぎるたび鋭い痛みが
はしる。だけどこの魚を手放す気はなかった。
今ではこの魚が僕と彼女の世界をつなぐ絆なのだから。

 魚は水を呼ぶ。
 もう随分近づいた。窓に水が映っている。外はもう水でいっぱいだ。
 窓の向こうには彼女がいる。
 もうすぐ会える。

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