古くて小汚いアパートだったが、払う家賃を考えれば相応だろう。
引越しの荷物は業者に頼むほどはない。少しずつ運ぼうと思って行ってみたら、
決まっていたはずの部屋にはすでに新住人がいた。
手違いが何かあったらしい。また宿探しかと憂うつになっていたところに同じ
間取りの他の部屋でも良いかと言われ、その場で承諾した。元の部屋が格別日当
たりが良かったわけでもないし、どこでも大差ないように思われた。
大家は世話好きそうな50代の女性だった。どちらかというと苦手なタイプだっ
たが、先方では私を良い聞き手と認識したようで、まだ顔も見知らぬ近所の住人
達の噂話やら何やら延々と聞かされるはめになった。
時折自分のことなども聞かれて適当に答えているうち、魚を飼いたいと思って
いる、という話になった。
「あら丁度いいわ。前の人の荷物がね、そう、その人私物をおいたまま出ていっ
てほんとに迷惑してるんですけどもね、まだ全部は片付けてないんです。部屋に
大きな水槽があるんですよ。ああいうのは、結構買うとお金がかかるものなんで
しょう。お使いになるんだったら、そのままにしておきますよ」
水槽も魚もまだ買っていなかったので、使えるものなら欲しいと思った。見て
から使うかどうか決めたいので置いておいてくれ、と答えた。
最後に、女性の一人暮らしについての好意あふれる助言をいくつか聞いて解放
された。
その日は結局、ひどく疲れたような気がして新しい部屋を見もしないで帰った。
ダンボールの箱を床に置くと、乱雑に詰め込まれた鍋や食器が耳障りな音を立
てた。カーテンは閉めきられて薄暗く、海水の湿った匂いがした。
がらんとした部屋の中には、水槽が一つ。匂いの原因はこれだろう。
考えていたよりも、随分大きい。せいぜい乾燥機の大きさ位かと思っていたが、
部屋についた浴槽の、2倍程もあった。
水槽には、白い砂が厚く敷きつめられ、暗い水がなみなみと湛えられていた。
水を抜いて乾かす位はしてくれてもいいのに、と思ったが仕方ない。
中に、何かいるのだろうか。
そう思い当たってまた憂うつになった。どのみち、こんな馬鹿げて大きい水槽
を置いておく気はない。物なら捨てればいいが、生き物は後味が悪くて困る。
もう、餌を与えられずに死んでいるかも。
気の進まない思いで水槽を覗き込むと、中で動くものがあった。
ゆらゆらと、銀色になびく髪。水に溶け込むような半透明の肌。
人魚がいた。
人魚をどうしよう。
ベッドと、わずかな本とダンボール一箱に満たない洋服を運び込んだ部屋の真
ん中には、まだあの水槽がある。水槽が重くて動かせないので、水色の褪せたよ
うな汚い絨毯もそのままだ。
人魚の背丈は、私より少し小柄なくらいだ。排水口に流すにも、生ゴミに出す
にも大きすぎる。
水族館では、受け入れてくれるのだろうか。
近くの川まで運んで流してしまえばいいだろうか。それも、一仕事だろう。ど
うやって運ぶ?人に、なんて説明すればいいだろう。
面倒くさい。
あれこれ考えるのも煩わしくて、そのままになってしまった。
大家に言って、任せてしまえば良かったのかもしれない。それも、今となって
は時機を逸したという気がする。
予定とは違うけれど、魚のかわりに人魚でもたいした違いはないかもしれない
と思った。
人魚は一日中殆ど動かないようだった。瞬きもしない。ただ首の両脇に傷口の
ように開いたえらを、ゆっくりと開閉させている。それがなければ精巧にできた
つくりものだと思ったかもしれない。
古くなった豚肉が冷蔵庫にあるのを思い出したので、生のまま水槽に落とし込
んでみた。
その途端、驚くほど素早い肉食魚の動きで人魚は生肉に食らいついた。思わず
後ずさりしたのに、跳ね上げられたしぶきを大量に浴びてしまった。
人魚の真っ白い、針の様に尖った歯列が、精確な機械のように肉片を切り取っ
ていく。私はピラニアの水槽の前に人だかりをつくる水族館の客のように、その
光景に魅入られていた。
部屋の真ん中に巨大な水槽があるというのは邪魔なものだが、慣れてしまえば
どうということはない。
バイトもなくて空いた午後、半日かけて水槽の掃除をする。西日がさして蒸し
暑い部屋の中で、ひたすらに手動のポンプで水を汲むみながら何でこんなことや
ってるんだろうと思う。
少なくなっていく水から上半身を空中にもたげて、人魚は苦しそうな様子もみ
せない。肺呼吸もできるらしい。
水槽に入っていたのは真水だった。硝子壁についていた藻を擦り落として水道
水を入れたが、相変わらず潮の匂いはやまなかった。人魚の、体臭なのだろうか。
人魚といっても、それには人間らしいところはまるでなかった。
下半身はぬめるような光を放つ真珠色の鱗でおおわれた魚のものだ。
乳輪も臍もなく、男も女ともつかない上半身の、その形は人のものに似ている。
色素のない白い肌に、厚い水掻きがついた、5本の指のある手。
人の髪よりもずっと細く繊細な銀色の糸束が頭部を覆っている。
人魚の顔。目こそ二つながらに正面を向いているが、人間との類似といえばそ
れくらいだ。魚や両生類のように、明らかに人間とは異質なものだった。
醜い顔だった。
同時にそこには奇妙な調和があって、銀色の瞬膜に覆われた目や、鋭利な牙を
覗かせる丸い口からも、どこか蠱惑的なものが感じられるのだった。
私はバイトとそのついでの買い物以外は外に出ることもなく、毎日を人魚と過
ごした。
以前にはなくてはならないと思っていたもの、テレビとかCDとか、60SPFの日焼
け止めとか、恋人とか。その一切がなしでも生きていける。生きていくだけなら。
一日中誰とも会わない誰とも話さなかったような日の夕暮れ、私は冷たい水槽
に寄りかかり、背中に人魚の気配を感じながら本を読む。
ある日帰ってくると、ベッドがぐっしょり濡れている。絨毯には、水を撒いた
ようにまだらな染みができていた。
人魚は、いつものように水槽中にただよい浮かんで、ときおり気まぐれに体を
回転させている。水槽の水かさは幾分減っていた。
枕の影に、鈍い乳白色に光る鱗が落ちているのを見つけた。
鱗を拾い上げたとたんかすかな痛みが指先に走って、赤いしずくがぽたぽたと
シーツに滴り落ちた。薄い硬い鱗のふちは細かに波打っていて、するどい刃物の
ように肌を切り裂いたのだった。水を含んだ白い布の上で、血液は拡散しながら
ひろがって鮮やかな跡をしるした。
空中で、息ができるなら。無論、水槽を乗り越えて外にでるのも難しくはない
筈だった。
人魚の口から、肺に溜まった空気の名残だろうか、コポコポと気泡が漏れてつ
ぶやくような音を立てた。
濡れた布団はその日のうちには乾かなかった。シーツを洗濯機に放り込み、
湿ったスプリングの上に新聞紙を敷いて、バスタオルを重ねて眠った。
いつにも増して濃厚な潮の匂いが立ち込めていた。息をするたび肺の奥深くま
で充満する、この匂いに私の嗅覚は決して慣れることがない。
ぴちゃ
暗闇の中で、人魚がたてる水音が聞こえた。
眠っている間に、また人魚が出てくるかもしれないという考えに思い当たった。
あの長い尾で、蛇のように這いながらやってくるのだろうか。
生肉を齧り取る白い歯を思い出した。
人魚にとって、豚も牛も鶏も人も何の違いがあるだろう。
今にも人魚がそこにやってきて、牙を剥き出しているような錯覚にとらわれる。
想像の人魚に怯えながら、確かめるために立ち上がって明かりをつけることは、
どうしても出来なかった。私はただ縮こまり震えていた。
痛いのはいやだ。一思いに、心臓を抉り取ってくれればいい。
血にまみれたその幻想を、どこか待ち望むように目を閉じた。
夢の中で、私は人魚になっていた。
硝子に囲まれた水槽は、果てしない深淵に続いていた。光の届かない暗闇へ向
かって、どこまでも潜りつづける。
次の日、水槽の水を足しながら、底砂に半ば埋もれた白いものがあるのに気付
いた。食べ残しの骨片かと思ったが、そうではなかった。バケツの水を一気にあ
けると砂が舞い上がり、隠されていたその表面があらわになる。
くまの絵のついた、マグカップの破片。
見覚えがあるものだった。彼が愛用していた。
そうだ。忘れていたわけではない。
ここは彼の部屋だった。
借りていた本を返すのを口実に部屋の前まできて、呼び鈴を押す勇気が出せな
かった。
(なんで。私のこと嫌いになったの?)
(なんで何も言わないの?良いよ。別れよう)
ちっとも良くなんかなかったのに。
あれが最後の言い争いだった。
私ばかり喋っていた気がする。彼が、日に日に遠ざかっていく不安に耐えられ
なくなっていた。黙ったままの彼は、まるでそこにいない人みたいに見えた。
それきり彼とは会えなかった。
部屋探しの途中でこのアパートを訪れた時には、もう彼の名は表札から消えて
いた。
彼の部屋で過ごした時間は、多くはない。その時には水槽も人魚もありはしな
かった。私の知っていた彼の部屋の面影は、ここには何もない。
彼と人魚はどんな風にこの部屋で過ごしていたのだろう。
あふれてくる涙に、なす術もなくうずくまった。
一日、彼に借りたままの本を探して過ごした。
越してきてから一度も開かず、一度も外へ持ち出さなかった。
少ない荷物をあるだけぶちまけて、人魚の水槽以外の全ての物を動かしたが、
本はどうしても見つからなかった。
面白そうだねと、ただ彼とのつながりが欲しくて言ってみたら、貸してくれた。
もう別れの兆しが見え始めた頃だった。
私はその本をまだ読み終えていない。
ためらいながら水槽に伸ばした手を、人魚に触れそうになって引っ込めた。
その牙を恐れたからばかりではなかった。
人魚の肌は、きっと冷たい。
水浸しになった部屋はいつまでもじめじめして厄介なことこの上なかったが、
幸い人魚が水槽を出たのはその一度きりだった。
人魚は、まるで硝子の外の世界など存在しないかのようにふるまっている。銀
色の目が、私の上に静止することもない。
あのマグカップは、何時の間にかまた砂にまぎれて見えなくなっていた。
乾ききらない布団からは鼻をつく匂いがし始めた。見れば裏側に点々と青黒い
黴のコロニーがついていて、買い替えるしかなかった。
それ以外は何も変わることのない、今日が昨日の繰り返しのような平穏な毎日
が続いた。
同じ朝が来て同じ夜が来て、私は人魚と部屋とを軸にぐるぐる変わらない時の
中を回っているようだった。
変わらない時などなく。
現実には、時間は過ぎていく。
髪は伸びたし、日は随分長くなって来た。
マグカップは水槽の中で風化して砂と化す。本は砂の中でひそやかに水を吸っ
てふやけ、形を喪う。
それを思う痛みさえ日々の中に、ぬるいコーヒー、三角コーナーに堆積するゴ
ミの中に薄められ埋もれていく。
彼の顔を、もうはっきりとは思い出せない。
この頃のバイトは、長続きしている。
最近買った携帯を前にして、雑誌をめくる。
誰かからの電話を待つなんて、久しぶりだった。
バイト先で知り合った男だった。まだ知人という以上の間柄ではなかったが、
話すのが苦にならない相手だった。
雑誌はインテリア特集で、やけに明るい色彩でいろどられた部屋が見開きで載
っている。
また引越しをしようかと思っている。荷造りは簡単だ。
開け放した窓から、遮るもののない日光が水槽にまで届いている。これだけ、
処分の仕方を考えなければならない。
水のない水槽の底に横たわる人魚の死体が、生きていた時と同じ、瞼のない閉
じない目で私を見ている。
それは予想していたよりもずっと容易く終わった。人魚の首筋に押し当てた包
丁の刃は、柔らかな肉の中に抵抗もなく滑り込んだ。探り当てた脊椎をぷつりと
切断すると、人魚は2、3回小さく痙攣して動かなくなった。
青白い体液にまみれて人魚は死んでいる。
暖かい日の光に、人魚は溶けて縮んで、そのまま消えていきそうだった。