空から 柏屋勇

 

1.
 ある日の午後、ぼんやりと外を眺めていると青空がちぎれて、ベランダに干した布団の上にふら
ふらと落ちてきた。
 ベランダに出て手に取ると、それはフリスビー程の大きさの円盤だった。中央が少し膨らんで、
帽子を連想させる形だ。まるでその日の空と見分けのつかない鮮やかな青色をしていた。材質はプ
ラスチックか樹脂のようで、そのいずれともつかなかった。とても軽い。
 UFO。空飛ぶ円盤。という言葉が脳裏に浮かんだ。
 だが、じっと見ていても円盤は最早ぴくりとも動いてくれなかった。
 綺麗な円盤だったので、テレビの上に置いて飾った。

 呼び鈴が鳴った時、まずいな、と思った。
 無視するわけにもいかず、開けたドアの向こうにいたのはやはり亮子だった。
「やあ。部屋、ちょっと散らかってるけど」
「荷物とりに来ただけだから」
 ああ、と口の中でつぶやいた僕の横をすり抜けて亮子はすたすたと部屋の中へ入っていった。
 予想していなかったことではなかったが、僕はうろたえていた。
 いいわけを。何に対する?引き止めなければ。どうやって。
 いつのまにか皮膚を刺し貫く棘のような、小さないさかい事や誤解の積み重なり。最後に引き金
となったのは些細なことだった。ずっと彼女を愛する心は変わらないでいた筈なのに、気付いた時
には二人の関係には修復不能な綻びが生じていた。
 亮子は、荷物をカバンに詰めながら泣いていた。
 とっくに愛想をつかされているのに、僕は亮子の後ろ姿を見ながら見苦しく散らかった部屋の片
づけをしたりする。
 全部持っていってしまわないで、何か一つでも残しておいてくれよ、そう言いたいのをこらえる。
未練がましい。すべて、今さらだ。

 にわかに雨が降り出した。
 ひどい土砂降りだった。雷が続けざまに鳴り響く。
「止むまで待ってなよ」
 そういう僕に、亮子はまとめた荷物を手にしばしためらってから肯いた。少し意外だった。そう
いえば、亮子は雷が苦手だと言っていたっけ。
 お茶を2人分煎れて、僕らは座卓をはさんで座った。
 この雨をさっき僕は有り難いと思った。彼女を引き止める口実になるから。だけど一時の雨が何
の救いにもなり得ないことは分かりきったことだった。
 亮子は斜めに座って、視線も僕から遠くそらして黙っている。
 雨が止むのを待っている。
 雨が止んだら、彼女は出て行く。
 湯呑みの中の茶が手をつけられないままにゆっくり冷えていく。雨の勢いは衰えない。ゆっくり
と流れる時間が、苦痛だった。この時が終わるのを、僕は望んでいるのか、恐れているのか。

 と、かたん、という小さな音がした。普通にしている時なら全く気にもとめない、雨音にまぎれ
てしまわないのが不思議なくらいの音だったが、過敏になった僕の神経は聞き逃さなかった。亮子
は相変わらず同じ姿勢を保ったままで、それが聞こえたのかどうかは定かでなかった。
 振り向いた僕は、テレビの上の、いつか拾った円盤の蓋が開いているのを見た。
 継ぎ目なく見えた円盤の表面に、そんなものがついていたとは今までまるで気付かなかった。蓋
なのか何なのかうっすらと埃をかぶった円盤の、盛り上がったところの側面に10円玉位の大きさ
の丸い穴が穿たれ、その脇に切り取られた部分が扉のように外へ向かって開かれていた。

 円盤の中から何か青いものが覗いて、ぽとりと床へ落ちる。
 青いゼリービーンズのような半透明の物体だった。床の上でふるふる震え、ゆっくり動き出した。
 ゼリービーンズの外皮が、さざ波のように順送りで規則正しく収縮する。半透明の体の内部には、
何の構造物も伺えない。ゼリービーンズは、意志をもつ生き物のような動きで、床の上の障害物を
確実に乗り越えて這い進んだ。蝸牛よりは速い。
 亮子は何も気付かずにガラスに叩き付けられる雨の跡を眺めていた。ゼリービーンズは亮子の右
腕をつたって肩をのぼりはじめる。
 やがて首筋から耳まで達したそれは、相変わらず規則正しいゆっくりした動きで、暗い体内の穴
へ潜り込んだ。

 円盤がUFOなら、あれは宇宙人だろうか。
 亮子はほおづえをついていた肘を机から離し、長い睫毛で縁どられた目をしばたいた。
「どうかしたのかい?」
 尋ねると、困惑した顔で、頭を傾けて振る動作を繰り返す。海やプールからあがった人が時々す
るような仕草だ。
「耳に、水が入ったみたいな感じがして」
「どんな?」
「冷たい」
 僕は彼女の右の耳を覗き込んだ。穴の奥にはただ暗がりが見えるだけだった。何も見えない、僕
はそう見たままを述べた。
 亮子には円盤から出てきた物体について何も言わなかった。僕自身、今起こったことを理解しよ
うと努める程、それが疲れた精神の見せたわけの分からない幻覚でないという確信が持てなくなっ
ていく。

 単調な雨音が続く。雷はいつしか遠ざかり聞こえなくなっていた。雨にいっとき程の激しさはな
くなったが、湿り気を含んで厚く重い黒雲が天を覆いつくしている様子が肌身に迫って感じられる。
「雨はもう今夜中にはやまないんじゃないか」
 呟く僕に、亮子は耳が寒い、と繰り返す。噛み合わない会話は、お互いひとり言をいっているよ
うだ。
 僕は立ち上がってテレビの上のUFOを手にした。
 やはり扉が開いている。
 中を覗いても見えるのはただの青いがらんどうだった。UFOの扉を閉めると、ケチャップのキャ
ップを閉じるのとそっくりの感触がした。

 寒い寒いと亮子が繰り返すので、僕は押し入れから電気ストーブを出した。じきに部屋の湿った
空気は暖められて、息苦しいくらいになった。
 亮子の肌にも薄く汗が滲んでいるのに、触れると冷たい。かすかに震えているようだった。
 寒いけど暑い、と亮子は言った。自分でもどちらなのかよく分かっていないようだった。僕がス
トーブを消すのは止めなかった。
「医者に、見てもらった方がいいよ」
 少し心配になって言った僕の言葉を、亮子は気分は悪くないのだといって退け、しきりに耳をい
じっている。
 終電の時間も近いのに、傍らになげうった荷物をかえりみようともしなかった。
 亮子は耳に気をとられて、帰ることを忘れてしまったようだった。僕もあえてそれを思い出させ
るような事は言わなかった。
 
 
2.
 つけっぱなしのテレビからは討論番組が流れている。テーマは宇宙人の存在を信じるか。可能性
というあやふやな論拠に立脚した実のない議論が繰り広げられている。議論自体より出演者同士の
個人攻撃や、それに対するエキセントリックな反応を楽しむための番組なのだろう。
 それにしてもこんな話題が取り上げられるのは、今が宇宙人ブームの真っ最中だからだ。UFOを
見たという人間の数がブーム到来前の十倍以上にもなる、とはどんな統計を取ったのか知らないが、
やはりテレビで言っていたことだ。実際僕のまわりにも“目撃者”は増えてきている。彼らが何か
見たと信じているのは確かなようだ。
 もっとも、テレビが無責任に唱えるブームなんて実際あるのかないのか分かりはしない。
うるさく鳴り出した電話をとると、聞きなれない男の声が出た。知らない名を名乗る。いや、少
し考えて思い出す。亮子の口から何度か耳にした名だ。
 彼女はどこにいるんだ。
「亮子は出ていったよ」
 ……どこへ。
「それはあんたが知ってるはずじゃなかったのか。僕は、知らない」
 電話は黙って切れた。

 僕は嘘をついた。
 亮子はあの日、出て行かなかった。次の日も、その次の日も、今日まで。
 振り返ると、窓際にもたれて座る彼女がいる。自分が話題になった電話の会話にも、まるで無関
心な風だ。
 僕は毎日彼女に話かけるが、返事はない。それは二人の間に以前のようなわだかまりがあるせい
ではなかった。
 彼女の目をみれば分かる。彼女はもうここにはいないのだ。亮子は別のものに変化してしまった。
 宙を見据えているがその実何も映っていない瞳の奥に、青いものが見える。
 変化はゆっくりしていたが、明らかだった。だんだん喋らなくなり、何にも関心を示そうとせず、
だんだん動かなくなった。
 医者に連れて行けばこうなるのをくいとめられただろうか。あるいは、青いゼリービーンズが亮
子の中にもぐりこむ前に気付かせてやれば良かったのだ。
 だが、もう一度時間が戻ったとしても、僕はまた同じように見ているだけだろう。これからだっ
て、亮子を誰か他人の目に触れさせようなんて思わない。

 ブラウスに覆われた亮子の肩をそっと剥き出しにすると、肩から腕にかけての肌には繊細な網目
状の内出血が紫に透けて広がっていた。その上に、植物の芽が顔をだしている。まだ色素のない白
く透き通った細い茎が無数に伸び出し、それぞれ小さな双葉をつけている。
 その一つを試みに引っ張ってみると、皮膚の内側に張りめぐらされた根のぷつぷつ切れる感触を
指先に伝えながら浮き上がる。僕は幼くひ弱な芽を傷つけるような真似をしたことを後悔して手を
放す。指に、つんとする青い匂いが残った。
 同じ物が顔や、手足の露光部分にも生えていた。こちらは早く芽吹いた分大きく成長し、太く丈
夫な緑の蔓が垂れ下がっている。沢山の芽の全てが育つわけではないらしく、黒髪と混じって垂れ下
がる葉の間に、まだはっきりと亮子の顔を見て取れた。
 あの青いゼリービーンズは、種だったのだろう。あるいは植物型の宇宙人というやつかもしれな
い。それは僕には分からない。亮子の中に溶けて、時間をかけて亮子と置き換わったのだ。
 僕は毎日亮子の植物に霧吹きで丁寧に水を与える。緑の葉がきらめく水に濡れて美しい。
 亮子がむかしここに持ち込んだ観葉植物はみな枯れてしまったが、彼女から生える葉は日当たり
の悪いこの部屋でも生き生きと成長を続けている。
 葉の間につぼみがついているのを、間違っても落としたりしないよう気を付けながら濡れたハン
カチで亮子の顔を拭う。頬のかげのつぼみは、ひときわ大きく膨らんで今にも咲きそうだ。
 甘い香りが、つぼみの内側から漏れ出してあたりに漂っていた。
 もうじき咲く花を、僕はなにより愛する。

 UFO目撃譚の中に、空色の円盤の話は聞かない。飛ぶ空の色にとけ込んで人目につかないだけか
もしれない。それとも、僕のところにきた円盤ただ一台しかなかったのか。
 世界中の人間が花に埋もれて消える未来。地球は再び緑の惑星となり、亮子が新時代のイブにな
るのかもしれない。空から降りたった花として、地上で唯一の存在として終わるのかもしれない。
 どちらでもいい。
 僕は亮子を失ったけれど、かわりに残された花を守り、育てていくだろう。

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