すな子のうさぎ 柏屋勇

 

 すな子の部屋は兎だらけだ。
 僕は兎を踏まないように気をつけながらテーブルのすな子に辿り着いた。テーブルの上にある
のはコンビニのパンとおにぎり、パックの牛乳だ。それに四つに割った生キャベツ。
 こう兎だらけでは、なかなか料理をする気にもなれないだろう。
 すみの方に、布で目隠しされた四角いゲージがあった。どうやら、すな子はまた新しい兎を連
れてきたらしい。扉は開いているが、見慣れぬ環境に怖じ気付いているのか、鼻先だけを外に出
してひくつかせている。
 床の上でキャベツを齧っているのは、どれも白い毛に赤い眼の家兎だ。どれも、大きい。4kg
近くあるそうだ。小学校で飼っていたパンダ兎しか知らなかったので、初めて見た時は異様に大
きく見えた。最初はそれぞれゲージで飼われていたのが、あまりに数の増え過ぎた今は、放し飼
いになって収集がつかなくなっている。
 すな子が食べている間、僕は部屋の掃除をした。絨毯の上に散らばる古くなった野菜くずや排
泄物の染みた新聞紙を集め、ゴミ袋につめた。毎日掃除をしても、染み付いた匂いはとてもとれ
ない。
 兎たちは、箒を手にうろつきまわる僕にはまるで頓着していない。えさをやろうとした指ごと
齧られてから、僕の方でも兎たちに余計なちょっかいを出すのはやめている。僕にはこの兎たち
があまり可愛いとは思えなかった。

 すな子の仕事は、大学の薬理学教室の助手だ。
 この数年、教室では兎を使った実験が行われている。
 そういうわけで、というのは実験に使った兎をすな子が連れ帰るせいで、これほど兎が増えて
いるのだった。
 耳に穴が開いていたりちぎれていたり、毛皮にバリカンの剃り跡があったりという違いを別に
すると、兎たちはお互い気味が悪い程良く似ている。すな子に聞くとそれも当然のことで、実験
用に遺伝形質が一定になるようつくられた血統なのだという。
 実験で死ぬ兎もいるし、終了後もぴんぴんしている兎もいる。でも一度実験に使用した兎は二
度は使えないので殺されることになっているそうだ。
 すな子は、処分されるはずの兎を自分の部屋に連れてくる。
心やさしいすな子。
 何十匹いるのか、すな子も把握していないのではないだろうか。数える気にもならない。

 ゴミの中から、一枚の絵葉書を拾った。しわくちゃになって、端は兎にかじられてぼろぼろに
なっている。
「こんなものがあったけど?」
「はがき?そういえばそこの壁に貼ってたのが、いつの間にかないと思った。やっぱりセロテー
プじゃ駄目だね」
 茶色い染みが大きくついていたが、絵柄はみてとれた。夕日に赤く染まった、石造りの建物が
整然とつくる街並の写真だった。裏には何も書かれていない。
「捨てていいよ」
 すな子は言いながら食べきれなかったキャベツを床に放る。そばにいた兎の一匹がのろのろと
寄ってきて匂いを嗅いだ。
「これってどこだい?」
「さあ。パリに行った時のお土産だから、フランスのどこかだと思うけど」
 僕は葉書をゴミ袋の中に押し込んだ。
「どうだった」
「何が」
「パリ」
 すな子は、少し考えてから答えた。
「あんまり、東京と変わらなかった」
「そうか。僕も、おととしニューヨークへ行ったけど、」
「行ったけど?」
「同じだったよ。話してる言葉が違うだけだ」
「……ふうん」
 会話の合間には、小さな、しかし途切れることのない音が空気を埋める。兎たちの咀嚼音。食
べていない兎は殆ど動かない。床にうずくまる白い肉の塊が、芋虫のような、何か得体のしれな
いモノに見えてくる。

 すな子が眠ってしまったので、僕は帰ることにした。
 深夜を過ぎても、僕の目は冴え冴えとしていた。
 僕はまっすぐ自分の部屋へは戻らず、橋のたもとの河原に出た。
 川を渡ってくる夜風が、冷たい。
 僕は河原に生い茂る草むらに分け入って、荷物をおろした。
 袋詰めにした兎だ。紙製のゴミ袋は意外と丈夫にできていて、兎一匹運ぶ用を充分に果たして
くれる。
 袋の口を開けて傾けると、中に入った兎がずるりと出てくる。
 急に広い地面に解き放たれて、戸惑ったように鼻先をひくつかせる。
 足で押しやると、一跳びだけはするが、またすぐ動かなくなる。もう一度ぐいと押すと、
ようやく茂みの中へ駆け込んで見えなくなった。
 すな子が兎を連れてきたら、僕はこっそり兎を連れ出す。儀式のような、繰り返し。それでな
ければすな子の部屋はたちまち兎であふれてしまう。
 すな子は本当は兎など少しも好きではないのだ。ただ一度実験用の兎を見殺しにできなかった
ために、際限のない救済をするはめになってしまったのだ。部屋にいる時は、最低限の世話をす
る以外、兎たちのことなどまるで目に入っていないかのように振る舞う。外で会う時も、兎の毛
を気にして神経質に服を払うしぐさを見せる。
 すな子が僕のしていることに気付いていないとは思えないが、本当に気付いていないかもしれ
ない。すな子にとって、僕にとっても、沢山の兎、その中ではどれがどれであっても同じだし、
どれがいてもいなくても関係ない。
 今までに何匹もの兎をこの河原に放したが、消えた兎を再び見ることはなかった。
 遺伝形質を操作されて野生を失った兎は、人の手をはなれては生きていけないのかもしれない。
僕の手にさえ捕えられた兎、犬や猫ならなおさら容易く捕まえるだろう。
 対岸では、護岸工事がはじまっている。
 この草原も、遠くない先につぶされてしまう。

 
 それは、月の明るい夜だった。
 遅い時刻だから、すな子はもう起きてはいないだろう。
 訪ねるつもりはなかったのに、いつとはなしに足は慣れた道筋をたどっていた。行き交う車は
殆どない。家々の窓の灯かりも大方は消え、あたりはひっそりと静かだった。
 何の取り柄もない詰まらないこの町を、僕は嫌っていたが、この時間帯だけはいくらか好きに
なれそうな気がする。
 いつだったか、この町をでて他の土地で暮らそう、そうすな子に言ったことがある。ほんのた
わむれに言った言葉だったが、その瞬間すな子が頷いてくれるのを切実に願った。
 予想通り、すな子は笑って相手にしなかった。すな子にはこの町での仕事と生活があるのだか
ら当然だ。それに僕にも本当は分かっていた。
 どこへ行こうと、結局何も変わりはしないのだと。
 今この瞬間にも、森は切り開かれていく。身を隠す場所はどこにもない。世界は日毎に狭くな
っていく。どこかへ旅をする、すると分かるのはそれが後にしてきた場所とそっくりであること、
求めた場所ではないということだ。
 もうすな子のアパートに着いてしまうことに気付いて、僕は足をとめた。引き返して、自販機
のコーヒーでも買って帰ろう。ポケットを探ると、数枚の硬貨が手に触れた。記憶が正しければ、
百円玉も混じっていた筈だ。
 その時ふと空を見上げた。普段はどうとも思わない月の明るさがなぜか気になり、空を確かめ
たくなった。
 ほとんど満月に近い、少しだけいびつな太った月だった。まだ昇りきっていないせいか、屋根
にかかった月はやけに大きくみえる。その月の前を、横切るものがあった。
 兎だった。
 空飛ぶ兎が。一匹、二匹、三匹……とつづく。月に照らされて跳ねている。
 月光を映して蒼く輝く毛皮に包まれて、兎たちは楽しげにじゃれあっているように見えた。非
現実的な光景に、僕はめまいを起こしながら目を離すことができなかった。
 どのくらいの時間だったのか。
 全てが消え失せて当たり前の夜空に戻った後も、僕はしばらく同じ姿勢でかたまったままぼん
やりしていた。

 次の日、道端には死骸になった兎が落ちていた。近所の子供たちが死体をみて何か言い合いな
がら、遠巻きにしてよけて行く。
 すな子のアパートが見える。古いとは知っていたが、明るいところで改めて見ると、その汚さ
が目につく。
 そういえば、昼間にこの道を歩くのは久しぶりだった。
「大家さんが、かんかんになっちゃってもう大変」
 すな子は、ラフなトレーナー姿で僕を迎えた。
「今日、仕事は?」
「バカ。日曜日でしょ」
「あ、そうか」
 なるほど外では子供たちが遊んでいた。不定期なバイトで暮らしていると、曜日の感覚も鈍く
なってしまう。
「引っ越すことになるかも」
 すな子がつぶやいたのを聞いて、僕は相変わらず兎でいっぱいの部屋を見渡した。ここは本来
ペット禁止のアパートだ。思えば、これだけの数をかかえて今までばれなかったことの方が不思
議なのだ。
「この兎たち、どうするんだ?」
「うん……やっぱり、処分することになるのかなあ」
 淡々としたすな子の口調から、どんな気持ちでいるのかを推測するのは難しかった。どうやっ
て、とは敢えて聞き返さない。
 今日テーブルの上に並べられているのは、醤油や料理酒の瓶、サラダオイル、それにフライパ
ンやなべといった調理用具だった。醤油の瓶に貼られた紙のラベルは、すっかり酸化して黄色く
なっている。印刷された賞味期限は、とうに過ぎた日付けのものだった。
 僕の目線に気付いて、すな子が説明した。
「流し台の下にしまってあったのを、さっき出したの」
 すな子と僕は、キッチンに入る。

「手前に物を置いて、奥の方は空けてあったんだよね」
 僕は、開けっ放しになっていた流しの下の狭い戸口から、収納庫の中を覗き込んだ。
 薄暗い、が光が奥から射している。前髪が揺れたのは、体を動かしたせいではない。空気が流
れている。風が吹き込んでくるのだ。
 収納庫は前面以外部屋の壁を利用しているのだが、外に面した壁には丸い穴が穿たれていた。
「この戸、ずっと開けっ放しだった?」
「たてつけが悪くて、一度閉めるとまた開けるのが大変だったから。少し開けとく習慣だったん
だけど。最近はあんまりここに来なかったし。まさか」
 まさか、兎が入り込んで壁を食い破るとは思わなかっただろう。いくら木造のぼろアパートと
はいえ。引き裂かれた新聞紙が、中に散らばっている。巣作りのつもりだったのだろうか。
 これは予備の出入り口というわけか。僕は感嘆に似た思いでその穴を見つめた。
 すな子の部屋は二階にある。間近に隣接する民家の屋根が、こちら側にあったはずだ。兎はこ
の穴をとおり抜けて外へ出たのだろう。
 夕べ僕の出会った光景は、幻ではなかった。屋根の上で跳ねる兎を、空を飛んでいると錯覚し、
月の光の下で毛皮の色までも特別なもののように思ってしまったのだ。
 僕は首を引っ込めようとして、隅の方で何かが動くのに気付いた。
「あ」
 手を伸ばして探ると、あたたかな、やわらかなものが指に触れた。そのまま捕まえて引っ張り
出し、すな子に手渡す。
 ふわふわの毛の塊は、一つではない。残りの二つも簡単に捕まった。
 僕とすな子の手の中に、全部で三匹の子兎。
 すな子の取ってきた人参の切れ端を与えると、僕らが見守る中で無心に食べ始める。
 どんな動物でも、幼い仔は愛らしく人の目をひきつける。
「全部、メスだった筈なんだけどな」
 まるで気付いていなかったらしく、すな子は首をかしげている。
「ねえ」
「何」
「こいつらくらいなら、僕のところでも飼えるよ」
「……うん」
 どん、と重い音に振り向くと、わき腹に四角い剃り跡のある兎が背後で跳んだのだった。
 清潔なゲージで育つ子兎と、沢山の兎がつくる死体の山と。
 ふと目の裏に映るイメージ。
 何が正しいかなんて、僕らには分からない。

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